フーシャング・シャー
フーシャング・シャー | |
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マールワー・スルターン朝君主 | |
フーシャング・シャーの墓廟(マーンドゥー) | |
在位 | 1405年 - 1435年 |
死去 |
1435年 |
子女 | ムハンマド・シャー |
王朝 | マールワー・スルターン朝(ゴール朝) |
父親 | ディラーワル・ハーン |
フーシャング・シャー(Hoshang Shah, 生年不詳 - 1435年)は、インド、マールワー・スルターン朝の君主(在位:1405年 - 1435年)[1]。即位前の名をアルプ・ハーン(Alp Khan)といった。
生涯
[編集]1405年、マールワー・スルターン朝を創始した父ディラーワル・ハーンが死亡し、息子のフーシャング・シャーが王位を継承した[2]。
即位後すぐ、1407年にフーシャング・シャーはグジャラート・スルターン朝との戦いに敗北し、捕虜となった[3]。だが、マールワーの支配が困難であったため、フーシャング・シャーは解放された[3]。これを機に、グジャラート・スルターン朝はマールワー・スルターン朝にとって危険な存在となり、以後両国の争いが続いた[3]。
フーシャング・シャーは首都をダールからマーンドゥーに遷都した[4][2]。マーンドゥーはヴィンディヤー山脈の上、全長40キロメートルの城壁に囲まれた都市であった。
フーシャング・シャーの治世、宗教的寛容策がとられ、この時代に建てられたラリトプル寺院の碑文からはヒンドゥー寺院の建設に制限が掛けられたことはなかったという[5]。また、ラージプートのマールワーへの移住を奨励し、メーワール王国の君主モーカルの2人の兄がマールワーにジャーギールを与えられた[5]。
また、フーシャング・シャーはこの地域の主要な商人かつ銀行業者のジャイナ教徒も保護した[5]。そのうち成功した商人のナルデーヴァ・ソーニは王の財務官、顧問官の一人になった[5]。
1435年、フーシャング・シャーは死亡し、息子のムハンマド・シャーが王位を継承した。だが、翌年に彼は宰相のマフムード・ハーン・ハルジーに暗殺された[2]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- フランシス・ロビンソン 著、月森左知 訳『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206年 - 1925年)』創元社、2009年。
- サティーシュ・チャンドラ 著、小名康之、長島弘 訳『中世インドの歴史』山川出版社、2001年。
関連項目
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