マールワー・スルターン朝
- マールワー・スルターン朝
- مالوہ سلطنت
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← 1401年 - 1531年 →
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公用語 ペルシア語、ウルドゥー語 首都 ダール
マーンドゥー- スルターン
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1401年 - 1405年 ディラーワル・ハーン 1405年 - 1435年 フーシャング・シャー 1436年 - 1469年 マフムード・シャー1世 - 変遷
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成立 1401年 滅亡 1531年
通貨 ルピー 現在 インド
マールワー・スルターン朝(マールワー・スルターンちょう、ペルシア語: مالوہ سلطنت)は、インドのマールワー地方に存在したイスラーム王朝(1401年 - 1531年)。マールワー王国とも呼ばれる。首都はダール、マーンドゥー。
歴史
[編集]ゴール朝
[編集]1398年、デリー・スルターン朝のトゥグルク朝末期、ティムールの北インド侵略によりデリーでは100000人が虐殺され、トゥグルク朝の権威は地に落ちた[1]。
その後、マールワー総督ディラーワル・ハーン・ゴーリーは独立の動きを見せ、1401年にトゥグルク朝への忠誠と納税を拒否し、マールワー・スルターン朝を創始した[1]。
1405年、創始者ディラーワル・ハーンは治世4年で死亡し、その息子フーシャング・シャーが新たな王となった[1]。 フーシャング・シャーはその治世、ヴィンディヤ山脈あった首都マーンドゥーに全長40キロメートルにわたる巨大な城壁を築き、ダールからここに首都を移した[2][1]。その治世、宗教的寛容策がとられ、この時代に建てられたラリトプル寺院の碑文からはヒンドゥー寺院の建設に制限が掛けられたことはなかったという[3]。
しかし、1435年にフーシャング・シャーが死ぬと、1436年にその息子ムハンマド・シャーは宰相マフムード・ハーン・ハルジーに殺害され、ゴール朝は滅亡した[1]。
ハルジー朝
[編集]1436年、宰相マフムード・ハーンは最後の王ムハンマド・シャーを殺害してゴール朝を滅ぼし、新たにハルジー朝を創始した[1]。この王朝の名は創始者がハルジー族出身だったことに由来する。
マフムード・シャーはデリーのサイイド朝の政治に介入し、グジャラート・スルターン朝とその治世を通して戦い続けた[1]。また、デカンのバフマニー朝、オリッサのガジャパティ朝、ゴンドワナの諸国とも戦った[4]。
しかし、その死後、マールワー・スルターン朝の勢力は徐々に衰退し、1531年にグジャラート・スルターン朝に首都マーンドゥーを落とされて滅亡した[1]。
歴代君主
[編集]ゴール朝
[編集]- ディラーワル・ハーン(在位:1401年 - 1406年)
- フーシャング・シャー(在位:1406年 - 1435年)
- ムハンマド・シャー(在位:1435年 - 1436年)
ハルジー朝
[編集]- マフムード・シャー1世(在位:1436年 - 1469年)
- ギヤースッディーン・シャー(在位:1469年 - 1500年)
- ナーシルッディーン・シャー(在位:1500年 - 1510年)
- マフムード・シャー2世(在位:1510年 - 1531年)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- フランシス・ロビンソン 著、月森左知 訳『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206年 - 1925年)』創元社、2009年。
- サティーシュ・チャンドラ 著、小名康之、長島弘 訳『中世インドの歴史』山川出版社、2001年。