ブッチャー・ブラニガン
ブッチャー・ブラニガン | |
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1977年 | |
プロフィール | |
リングネーム |
ブッチャー・ブラニガン クラッシャー・ブラニガン ジョー・ブラニガン キラー・ジョー・ノボ キラー・ジョー・ノバ |
本名 | ジョセフ・ノボ[1] |
ニックネーム | ビッグ・ナスティ[1] |
身長 | 190cm[2] |
体重 | 132kg(全盛時)[2] |
誕生日 | 1948年9月3日[3] |
死亡日 | 2009年9月6日(61歳没)[3] |
出身地 |
アメリカ合衆国 ニュージャージー州 ミドルセックス郡パースアンボイ[3] |
スポーツ歴 | レスリング[1] |
ブッチャー・ブラニガン(Butcher Brannigan、本名:Joseph Novo、1948年9月3日 - 2009年9月6日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ニュージャージー州パースアンボイ出身[3]。
キラー・ジョー・ノボ(Killer Joe Novo)のリングネームでも知られ、ヒールのラフ&パワーファイターとして、1970年代前半はWWWFのアンダーカードで活動[4]。ブッチャー・ブラニガンに改名後はオセアニアやヨーロッパなど各国を転戦した[4]。
来歴
[編集]1971年よりジョー・ノボまたはジョー・ノバの名義でWWWFに出場。ジミー・バリアント、キング・カーティス・イヤウケア、プロフェッサー・タナカ、ゴリラ・モンスーン、チーフ・ジェイ・ストロンボー、スパイロス・アリオン、フレッド・カリー、ザ・スポイラー、アーニー・ラッド、チャック・オコーナーらと対戦してキャリアを積み[5]、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンではエドワード・カーペンティアとのシングルマッチも組まれた[6]。
1972年7月、キラー・ジョー・ノボのリングネームで末期の日本プロレスに初来日。7月28日の後楽園ホール大会では、ジャイアント馬場とシングルマッチで対戦している[7]。この試合は『NET日本プロレスリング中継』第1回放送(生中継)のメインイベントでもあった[8]。シリーズ中は、坂口征二、大木金太郎、上田馬之助、グレート小鹿ともシングルマッチで対戦した[9]。
翌1973年からはジョー・ノボ名義でのWWWF出場と並行して、南部や西海岸のNWA圏およびカナダではブッチャー・ブラニガンと名乗って活動。ジョージアではボブ・アームストロングやミスター・レスリング2号と対戦[10]、ロサンゼルスでは1974年にマン・マウンテン・マイクと巨漢コンビを組み、アンヘル・ブランコ&ドクトル・ワグナーやポークチョップ・キャッシュ&ビクター・リベラとNWAアメリカス・タッグ王座を争った[11]。
1975年5月、キラー・トーア・カマタらと共に国際プロレスに来日。エースのラッシャー木村と金網デスマッチで対戦し、ジェフ・ポーツをパートナーにIWA世界タッグ王座の争奪戦にも出場した(1回戦でグレート草津&マイティ井上に敗退)[12]。国際プロレスと提携していたカルガリーのスタンピード・レスリングでは、タワーリング・インフェルノやドン・ガニアと組んでエディ&ジェリー・モローのインターナショナル・タッグ王座に度々挑戦した[13]。
1977年より南半球のオセアニア地区に進出して、翌1978年にかけてオーストラリアを主戦場に活動。バグジー・マグロー、キラー・カール・クラップ、オックス・ベーカー、ジョー・ルダック、ブルーザー・ブロディなど北米から参戦してくるヒールと共闘し、現地ベビーフェイスのラリー・オーディやロン・ミラーと抗争。リック・マーテルやアンドレ・ザ・ジャイアントとも対戦した[1]。
帰米後は古巣のロサンゼルス地区にて、プロフェッサー・イトー、レロイ・ブラウン、アル・マドリル、トム・プリチャード、ミル・マスカラスらと対戦。1980年8月29日にはLAにスポット参戦したボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に挑戦した[14]。オセアニアでの活動も続け、ニュージーランドでは1981年9月17日、スティーブ・リッカードを破りNWA英連邦ヘビー級王座を奪取している[15]。
1982年はクラッシャー・ブラニガンのリングネームでヨーロッパにも遠征し、イギリスではロンドンのロイヤル・アルバート・ホールにてピート・ロバーツと対戦[16]。新日本プロレスから海外武者修業に出ていたクイック・キック・リーこと前田日明とのシングルマッチも行われた[17]。同年秋にはドイツのハノーバー・トーナメントに出場、ビッグ・ジョン・クイン、アクセル・ディーター、クラウス・カウロフ、スティーブ・ライト、トニー・セント・クレアー、ミレ・ツルノ、エド・ウィスコスキーらと優勝を争い、ムース・モロウスキーとも大型タッグチームを結成した[18]。キャリア末期の1983年にはニュージーランドにて、前王者パット・オコーナーの返上で空位となっていたNWA英連邦ヘビー級王座を再び獲得している[15]。
引退後は故郷のニュージャージーにて刑務官に転じた[1]。2009年9月6日[3]、腎不全と心臓病のため死去[1]。61歳没。
得意技
[編集]獲得タイトル
[編集]- ワールド・チャンピオンシップ・レスリング(オーストラリア)
- NWA豪亜タッグ王座:4回(w / バグジー・マグロー、キラー・カール・クラップ、レス・ロバーツ、オックス・ベーカー)[20]
- オールスター・プロレスリング(ニュージーランド)
- NWA英連邦ヘビー級王座:2回[15]
脚注
[編集]- ^ a b c d e f “"Big, nasty" Butcher Brannigan was really a good guy”. Slam Wrestling (2009年9月30日). 2014年3月3日閲覧。
- ^ a b “Wrestlers Database: Butcher Brannigan”. Cagematch.net. 2014年3月3日閲覧。
- ^ a b c d e “Butcher Brannigan”. Wrestlingdata.com. 2014年3月3日閲覧。
- ^ a b “Butcher Brannigan: Places”. Wrestlingdata.com. 2014年3月3日閲覧。
- ^ “The WWE matches fought by Butcher Brannigan in 1972”. Wrestlingdata.com. 2023年7月23日閲覧。
- ^ “WWWF on HBO”. Cagematch.net. 2014年3月3日閲覧。
- ^ “JWA 1972 Summer Big Series I”. Puroresu.com. 2016年4月17日閲覧。
- ^ 『日本プロレス事件史 vol.2 テレビプロレスの盛衰』P19(2014年、ベースボール・マガジン社、ISBN 9784583621876)
- ^ “The JWA matches fought by Butcher Brannigan in 1972”. Wrestlingdata.com. 2023年7月23日閲覧。
- ^ “The GCW matches fought by Butcher Brannigan in 1973”. Wrestlingdata.com. 2014年3月3日閲覧。
- ^ a b “NWA Americas Tag Team Title”. Wrestling-titles.com. 2014年3月3日閲覧。
- ^ “IWE 1975 Big Challenge Series”. Puroresu.com. 2016年4月17日閲覧。
- ^ “The Stampede matches fought by Butcher Brannigan in 1976”. Wrestlingdata.com. 2014年3月3日閲覧。
- ^ “The Los Angeles matches fought by Butcher Brannigan in 1980”. Wrestlingdata.com. 2014年3月5日閲覧。
- ^ a b c “NWA British Empire Heavyweight Title [New Zealand]”. Wrestling-Titles.com. 2014年3月3日閲覧。
- ^ “Butcher Brannigan fought at United Kingdom in the year 1982”. Wrestlingdata.com. 2014年3月3日閲覧。
- ^ “RGP at Bridlington”. Wrestlingdata.com. 2021年10月21日閲覧。
- ^ “Butcher Brannigan fought at Germany in the year 1982”. Wrestlingdata.com. 2014年3月3日閲覧。
- ^ “NWA Beat the Champ Television Title”. Wrestling-titles.com. 2014年3月3日閲覧。
- ^ “NWA Austra-Asian Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2014年3月3日閲覧。
外部リンク
[編集]- Online World of Wrestling
- ブッチャー・ブラニガンのプロフィール - Cagematch.net, Wrestlingdata.com, Internet Wrestling Database