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ブレイディ・アンダーソン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ブレイディ・アンダーソン
Brady Anderson
2015年7月16日
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 メリーランド州シルバースプリング
生年月日 (1964-01-18) 1964年1月18日(60歳)
身長
体重
6' 1" =約185.4 cm
202 lb =約91.6 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 外野手
プロ入り 1985年 ドラフト10巡目でボストン・レッドソックスから指名
初出場 1988年4月4日
最終出場 2002年5月20日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

ブレイディ・ケビン・アンダーソンBrady Kevin Anderson, 1964年1月18日 - )は、アメリカ合衆国メリーランド州シルバースプリング出身の元プロ野球選手外野手)。左投左打。

経歴

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レッドソックス時代

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1985年のMLBドラフトボストン・レッドソックスから10巡目に指名を受け入団。1986年にA級で打率.319・12本塁打・44盗塁・107四球を記録。

1988年4月4日のデトロイト・タイガース戦でメジャーデビューし、ジャック・モリスから3安打を放つ。7月29日にマイク・ボディッカーとの交換トレードで、カート・シリングと共にボルチモア・オリオールズに移籍。

オリオールズ時代

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移籍後も数年間はメジャーとマイナーの往復が続いたが、新本拠地オリオールパーク・アット・カムデンヤーズが開場した1992年にメジャーに定着。前半戦で打率.286・15本塁打・28盗塁を記録し、オールスターゲームに初めて選出される。シーズン通算では打率.271・21本塁打・80打点・53盗塁・100得点を記録し、史上初の20本塁打・80打点・50盗塁・100得点を達成した。

1994年1994年から1995年のMLBストライキでシーズンが打ち切られたが、31盗塁を記録して盗塁死は僅かに1で、96.9%と高い盗塁成功率を誇った。

1996年に突如本塁打を量産し、前半戦で30本塁打を記録。4年ぶりにオールスターゲームに選出され、初の先発出場を果たした。49本塁打で迎えたトロント・ブルージェイズとのシーズン最終戦で、同年のサイ・ヤング賞投手パット・ヘントゲンから本塁打を放ってシーズン50本塁打に到達し、フランク・ロビンソンの球団記録を更新した。シーズン通算では打率.297・50本塁打・110打点・21盗塁・OPS1.034を記録し、チームのワイルドカード獲得に大きく貢献。シーズン50本塁打と50盗塁の両方を記録したのは史上初だった[1]。また50-20(50本塁打20盗塁)と20-50(20本塁打50盗塁)の両方を達成した史上唯一の選手となった。クリーブランド・インディアンスとのディビジョンシリーズでは第1戦・第2戦と2試合連続で本塁打を放ち、勝利に貢献。ニューヨーク・ヤンキースとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第1戦でアンディ・ペティットから本塁打を放つが、その後は4試合で2安打と振るわず、チームは1勝4敗で敗退し13年ぶりのリーグ優勝はならなかった。MVPの投票では9位に入った。

1997年は前半戦終了時で打率は.300だったが、7本塁打に終わる。それでも2年連続でオールスターゲームに選出され、1番・左翼で先発出場。シーズン通算では打率.288・18本塁打・73打点と前年から本塁打を大きく減らしたが、チームはヤンキースを振り切って14年ぶりの地区優勝。シアトル・マリナーズとのディビジョンシリーズでは打率.353・1本塁打と活躍。インディアンスとのリーグチャンピオンシップシリーズでも打率.360・2本塁打を記録するが、チームは2勝4敗で敗退し前年に続きあと一歩でリーグ優勝を逃した。

1998年は不調に陥り、打率.236・18本塁打に終わる。

1999年は好調を維持し、打率.282・24本塁打・81打点・36盗塁、キャリアハイの出塁率.404を記録する。

2001年は開幕から不振に喘ぎ、打率.202・8本塁打に終わる。シーズン最終戦となった10月6日のレッドソックス戦の9回2死で打席に立ち、同年限りでの引退を表明していたカル・リプケン・ジュニアがネクストバッターズ・サークルで待つ中、フルカウントから空振り三振を喫し試合終了。後にその打席ではかつてないほどの緊張を味わったと語っている。11月16日に解雇され、12月6日にインディアンスと契約。

インディアンス時代以降

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2002年はシーズン初打席で安打を放つなど、開幕直後から10連勝したチームと共に好調なスタートを切ったが、すぐに失速。打率.163・1本塁打に終わり、5月20日の試合を最後に出場がなく、解雇。その後サンディエゴ・パドレスとマイナー契約を結ぶが、メジャーに昇格することはできず、現役引退。

引退後

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2004年にオリオールズの殿堂入りを果たす。同年ジム・パーマーは、あるインタビューでアンダーソンが1990年代中盤に俄かにパワーヒッターとしての地位を得たのはアナボリックステロイドなどの禁止薬物の使用に拠るところが大きいと発言。しかし彼はこれを固く否定し、翌日パーマーは自身の発言を撤回した。またホセ・カンセコ暴露本禁断の肉体改造』の中でアンダーソンの禁止薬物の使用を疑う旨の発言をしている。

現在は2003年の夏に誕生した娘ブリアナと共にカリフォルニア州に在住しているが、出来る事なら現役を続けたかったと語っている。引退した主な理由としてその娘の養育を挙げている。

アメリカン・バスケットボール・アソシエーションのハリウッド・フェイムの部分オーナーでもある。

エピソード

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打者が肘に着けるプロテクターの考案者としても知られる。現在でもイチローが使用するなどごく普通に見られる物だが、元々は彼がインラインスケートを楽しんでいる時に、着けていたプロテクターを野球に使用してみてはどうかと思いついたのが発端である。夏はサーフィン、冬はスキーと、とにかくスポーツなら何でもトライしてみたかったという彼の性格が産んだ副産物である[2]

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1988 BOS 41 172 148 14 34 5 3 0 45 12 4 2 4 1 15 0 4 35 2 .230 .315 .304 .620
BAL 53 192 177 17 35 8 1 1 48 9 6 4 7 0 8 0 0 40 1 .198 .232 .271 .504
'88計 94 364 325 31 69 13 4 1 93 21 10 6 11 1 23 0 4 75 3 .212 .272 .286 .558
1989 94 317 266 44 55 12 2 4 83 16 16 4 5 0 43 6 3 45 4 .207 .324 .312 .636
1990 89 279 234 24 54 5 2 3 72 24 15 2 4 5 31 2 5 46 4 .231 .327 .308 .635
1991 113 313 256 40 59 12 3 2 83 27 12 5 11 3 38 0 5 44 1 .230 .338 .324 .662
1992 159 749 623 100 169 28 10 21 280 80 53 16 10 9 98 14 9 98 2 .271 .373 .449 .823
1993 142 664 560 87 147 36 8 13 238 66 24 12 6 6 82 4 10 99 4 .263 .363 .425 .788
1994 111 525 453 78 119 25 5 12 190 48 31 1 3 2 57 3 10 75 7 .263 .356 .419 .776
1995 143 657 554 108 145 33 10 16 246 64 26 7 4 2 87 4 10 111 3 .262 .371 .444 .815
1996 149 687 579 117 172 37 5 50 369 110 21 8 6 4 76 1 22 106 11 .297 .396 .637 1.034
1997 151 696 590 97 170 39 7 18 277 73 18 12 2 1 84 6 19 105 1 .288 .393 .469 .863
1998 133 574 479 84 113 28 3 18 201 51 21 7 4 1 75 1 15 78 7 .236 .356 .420 .776
1999 150 692 564 109 159 28 5 24 269 81 36 7 1 7 96 7 24 105 6 .282 .404 .477 .881
2000 141 618 506 89 130 26 0 19 213 50 16 9 5 7 92 5 8 103 4 .257 .375 .421 .796
2001 131 501 430 50 87 12 3 8 129 45 12 4 2 1 60 4 8 77 3 .202 .311 .300 .611
2002 CLE 34 101 80 4 13 4 0 1 20 5 4 0 0 1 18 2 2 23 5 .163 .327 .250 .577
MLB:15年 1834 7737 6499 1062 1661 338 67 210 2763 761 315 100 74 50 960 59 154 1190 65 .256 .362 .425 .787
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績

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中堅(CF) 左翼(LF) 右翼(RF)




































1988 BOS 17 39 0 1 0 .975 - 25 48 3 0 1 1.000
BAL 49 154 1 3 0 .981 - -
'88計 66 193 1 4 0 .980 - 25 48 3 0 1 1.000
1989 75 188 2 3 0 .984 3 1 0 0 0 1.000 1 0 0 0 0 ----
1990 21 46 1 1 1 .979 44 103 2 1 0 .991 1 1 0 0 0 1.000
1991 26 54 1 0 0 1.000 75 84 2 3 0 .966 9 11 0 0 0 1.000
1992 7 17 0 1 0 .944 148 359 10 7 6 .981 3 6 0 0 0 1.000
1993 18 44 2 0 0 1.000 126 244 4 2 0 .992 3 5 0 0 0 1.000
1994 38 81 2 1 1 .988 76 153 1 0 0 1.000 5 12 1 0 0 1.000
1995 40 74 1 1 0 .987 121 196 0 2 0 .990 -
1996 143 342 8 3 1 .992 - -
1997 124 279 2 3 0 .989 - -
1998 130 270 1 4 0 .985 - -
1999 129 291 3 1 1 .997 9 17 0 0 0 1.000 -
2000 88 230 1 1 1 .996 16 26 0 0 0 1.000 24 46 0 0 0 1.000
2001 6 17 0 0 0 1.000 56 96 1 0 0 1.000 66 126 7 3 4 .978
2002 CLE 16 37 0 0 0 1.000 14 15 0 1 0 .938 2 0 0 0 0 ----
MLB 927 2163 25 23 5 .990 688 1294 20 16 6 .988 139 255 11 3 5 .989
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 赤文字はMLBにおける歴代最高

獲得タイトル・記録

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  • MLBオールスターゲーム選出 3回:1992年, 1996年, 1997年
  • シーズン初回先頭打者本塁打:12(歴代2位、1996年)
  • 通算初回先頭打者本塁打:44(歴代7位)

脚注

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  1. ^ バリー・ボンズ1990年に53盗塁、2001年に73本塁打を記録し、2人目の達成者となった。また、大谷翔平2024年に史上初の同一シーズン50本塁打50盗塁を達成し、3人目の達成者となった。
  2. ^ 福島良一『素晴らしいアメリカ野球』光文社57ページ

外部リンク

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