ブルーノ・メグレ
ブルーノ・メグレ Bruno Mégret | |
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2005年5月にパリ市内で行われた集会で演説するブルーノ・メグレ | |
生年月日 | 1949年4月4日(75歳) |
出生地 | フランス、パリ |
出身校 |
リセ・ルイ=ル=グラン エコール・ポリテクニーク 国立土木学校 カリフォルニア大学バークレー校 高等国防研究院 |
前職 | 技術官僚 |
所属政党 |
共和国連合(1976年 - 1982年) 共和国行動委員会(1982年 - 1988年) 国民戦線(1987年 - 1998年) 共和国運動(1998年 - ) |
称号 | M.S.(カリフォルニア大学バークレー校)・1975年 |
配偶者 | カトリーヌ・メグレ |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1986年4月2日 - 1988年5月14日 |
欧州議会議員 | |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1989年7月25日 - 1999年7月19日 |
ブルーノ・メグレ(Bruno Mégret、1949年4月4日 - )は、フランスの官僚、政治家。反EU、反移民などを唱える極右政党共和国運動党首。妻はヴィトロル市前市長のカトリーヌ・メグレ。
経歴
[編集]1949年4月4日、パリ生まれ。パリ随一の名門リセのリセ・ルイ=ル=グランを経て、フランス理工系最高峰のエコール・ポリテクニーク卒業。国土整備関係のエンジニアを経て、シャルル・パスクワの推薦で対外関係省に入り、1981年の国民議会議員選挙に保守第一党の共和国連合公認でイヴリーヌ県から立候補したものの落選した。
1985年に国民戦線に入党した。1986年3月の国民議会議員選挙に国民戦線から出馬して当選し、1988年6月まで務める。
1989年の欧州議会議員選挙に国民戦線から出馬して当選し、1999年まで務める。1992年3月に初当選してから2002年3月までプロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏議会議員を務める。2001年3月からマルセイユ市議会議員を務めている。
国民戦線内の経歴
[編集]- 1987年に1988年フランス大統領選挙に出馬するジャン=マリー・ル・ペン党首の選対責任者に任命される。
- 1988年10月に同党ナンバー2の全国代表に任命される。
- 1990年10月に同党のプロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏代表に任命される。
共和国運動を結成
[編集]メグレは1998年に国民戦線の乗っ取りを試みたが、ル・ペン党首との権力闘争に敗れて同年の12月13日に除名された。
メグレは自らを支持する国民戦線の党員・幹部を引き連れて、1999年1月23日-25日に党大会を開催し、国民戦線-国民運動を結党し、メグレが党首に就任した。しかし、5月11日にパリ大審裁判所はメグレ派が 国民戦線という党名とマークを使用することを禁止した。
1999年欧州議会議員選挙(6月13日、投票)にメグレ派は候補者を擁立したが、フランス全土で57万8774票(3.28%)を得るにとどまり、議席は一つも獲得できず、敗退に終わった。1999年10月2日に党大会を開き、党名を共和国運動に変更した。
2002年フランス大統領選挙にメグレが出馬したものの、66万7026票(2.34%)を得ただけで惨敗した。2002年国民議会議員選挙(6月9日、16日、投票)では577の小選挙区のうち571選挙区に党公認候補を擁立したが、フランス全土で27万6376票(1.1%)を得ただけで当選者はゼロだった。
2006年12月20日にメグレはル・ペン党首と会談して、2007年フランス大統領選挙で共和国運動がル・ペン候補を支持することで合意した。
2007年国民議会議員選挙(6月10日、17日、投票)では「反移民・反イスラム化・反治安悪化[1]」をスローガンにして379名の党公認候補を擁立したが、当選者はゼロだった。
関連項目
[編集]脚注
[編集]- ^ Contre l'immigration-islamisation-insécurité
参考文献
[編集]- 『パリの移民・外国人 欧州統合時代の共生社会』 本間圭一(著) 高文研
- 『フランス極右の新展開―ナショナル・ポピュリズムと新右翼』 畑山敏夫(著) 国際書院
- 『現代フランスの新しい右翼―ルペンの見果てぬ夢』 畑山敏夫(著) 法律文化社
- 『沸騰するフランス 暴動・極右・学生デモ・ジダンの頭突き』 及川健二(著) 花伝社