プロジェクト‐ノート:キリスト教/過去ログ3
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比較宗教学等の見解
[編集]憑依、悪魔憑きの記事に、キリスト教とは全く関係がない内容に「キリスト教」の節名が付いていました。「聖霊が憑くような現象は、きわめて望ましい。」などととてつもない訳語が採用されていることだけでも、キリスト教の知識のある人にとっては、これがどのようなものか説明しなくてもわかるはずです。とりあえず節の名称を変更しておきました。しかし、そういう学問もあるわけですから、比較宗教学による見解を書く必要があるなら、比較宗教学による見解としてキリスト教の見解とは別に書かれるべきです。--イザヤ 2011年1月14日 (金) 17:11 (UTC)
憑依についてですが、複数の問題テンプレを貼付しました上に、節名も変更しました。en:Lynn Picknettを「比較宗教学者」として扱うのは不適切で、彼は一オカルト研究家です。まだしもマシな「百科事典的」と思える記述として2009年3月8日 (日) 02:25の版が挙げられるのですが、この版には出典がありません…。--Kinno Angel 2011年1月14日 (金) 23:36 (UTC)
- ダ・ヴィンチ・コードの種本の作者だったのですね。Kinno Angelさんの判断は妥当だと考えます。ところで、ノート:へーレム、ノート:聖絶で議論になっていますが、いくらキリスト教のプロジェクトで教派の間で非常な注意をはらって中立性を確保したとしても、ユダヤ教とキリスト教を混同したり、世俗の学者がキリスト教を批評したものが、中立的だと信じて疑わない人たちがいれば、努力が無駄になります。もちろん、そういう観点、視点があってもいいでしょう。けれどもそれは項目が分けられるか、キリスト教の項目であれば、項目の下に批判的見解として書かれるべきです。プロテスタントがローマ・カトリックを批判する文献でローマ・カトリックの項目を埋めたり、福音派や聖霊派が進化論や異教や異端を批評する文章で進化論や他の宗教の項目を埋めることはないし、カール・バルトが他の思想を批評する文章で他の項目を埋めたりはしないのに、他の宗教や、他の学者の立場から、キリスト教や聖書を批評する文章や他の宗教や思想とキリスト教を「統合」する観点でうめると中立的になるとどうして考えることができるのでしょうか。それだって、観点の一つでしょう。聖書信仰の前提をもって訳された、新改訳聖書の訳語を教会の礼拝において決して使われることのない岩波訳聖書が採用したために、混乱が起こっていますが、プロジェクトの上記の議論にあるように、もとのヘブライ語、ギリシャ語が同じであっても、教派が違うと訳語が変わっています。ユダヤ教や他の観点と一緒に書くならば、キリスト教と分割することが自然です。--イザヤ 2011年1月24日 (月) 08:12 (UTC)
- 新改訳聖書の与えた意味と、ユダヤ教や他の学問的お立場の内容が違うことはわからないわけはないと思いますが、内容の違う記事を統合して、ユダヤ教の見解と、批判的見解を優先して書きたいと主張しておられるようです。もちろん、そういう記事があってもいいでしょう。けれども、キリスト教の特に福音派における聖絶と、ユダヤ教や他の学問的立場におけるヘーレムの意味が違うならば、史的イエスのように分割されるべきです。いわば、その内容は聖絶の史的イエスではないでしょうか。訳語に特別の意味がこめて訳されてあれば、その訳語をメインに使う立場か、その訳語の作成者の見解が優先されるべきだと考えるのは、間違っているとは思えません。逆に史的イエスの項目を正統キリスト教からの文書で埋めることもしないわけです。--イザヤ 2011年1月24日 (月) 08:36 (UTC)
- コメント 当該議論については、イザヤさんの議論の相手方から招請を受けました。いずれ私も議論に参加させて頂きます。ここでイザヤさんの仰っていることは、一般論として、文言上は、大体賛成出来るものですが、具体的運用の場面となればまた別のレベルの話になってまいります。ともあれ、議論の経緯を当方なりに確認させて頂きます。--Kinno Angel 2011年1月24日 (月) 09:02 (UTC)
- コメント このような箇所で問題提起をされながら、当の議論相手の私には何の連絡もないのはいささか疑問です。私は以前から「聖絶」を「ヘーレム」に改名した上で「アナテマ」と統合した方がよいと考えてしましたが、それがノートでの議論を複雑にしてしまったようです。あなたの編集は履歴を見れば分かりますが、何の提案もなしにいきなり記事を改編されたので、議論が過熱してしまったのです。改名&統合提案に関しては反対意見が多ければ撤回するのにやぶさかではありません。なお、誤解のなきよう申し添えますが、先般の私の改訂は、あくまで記事としての整合性を考えて元々の記事を並べ替えたもので、イザヤさんが思っているようなユダヤ教やリベラルな解釈を優先して書きたいと考えているわけでは必ずしもありません(追記:福音派の事典とカトリックの事典の説明は内容的にほぼ同じで、問題になった今回の私の編集もその記事の流れ〔旧約→新約〕をある程度踏襲しております)。また、あなたの言う批判的な聖書学者の見解を書くことは中立性の原則から正しい行為で、逸脱行為ではいささかもありません。ノート:アナテマでも議論になっていますが、これらの項目は余り大きなページではないので、統合しておいた方が親切で、後々の編集も考えて適切だと考えます。
- なお、再三にわたって書いているように、Wikipediaはキリスト教の専門事典ではないのだから、一般の百科事典としての整合性は最優先されなければならないと思います。また、ここで言うべきではないと思いますが、私を無視してここで問題提起する行為も疑問ですが、それ以上に、私が要出典タグを貼ってひと月しか経っていない記述をいきなり削除したり、或は今回のように今になって出典要請タグをベタベタ貼付したりするような行為はかなり問題があると思います。そういうあなたの編集態度が原因で議論が過熱しているのです。このことは当該記事のノートでも何度も申し上げていることですが、私は改名&統合提案よりも先にあなたの編集態度を問題にしているのです。今回懸案だった改名&統合提案を起こしたのも、当該記事でのあなたとの編集合戦を避けられるのではないかと考えた上でのことす。私の目から見ると、あなたが編集すればするほど記事が錯綜するのです。それはともかく、あなたのこのような逸脱とも取れる編集に対して近くコメント要請も考えていたのですが、幸いこのようなページがありましたので、今後はこちらで議論したいと思います。--Bokemiann 2011年1月24日 (月) 12:53 (UTC)
- むしろ批判的な見解は大いに書かれるべきで、項目が足りないとさえ考えています。たとえば、批判的なグループとしてよくとりあげられるen:Jesus Seminarはまだ項目さえありません。でも明らかにこの系統と考えられる記述が、出典なしに書いてあったりします。きちんと出典付きで、分けて書かれるべきですね。それに、出典の無い記述が書かれて即削除された例を何度も見ました。出典がなく、書かれてから何年もたち、タグが付いてから一か月もたった記述を削除したことについて私に責めがあるとは思いません。--イザヤ 2011年1月24日 (月) 14:45 (UTC)
- ここで議論すべきではないのかも知れませんが、出典がないからと言って直ぐに削除することには反対です。あなたがそのような例を幾つか見ているからと言ってそれが削除の根拠にはなりません。あなたは私がタグをつけた記事をほぼ片っ端から削除したのです。しかも、私がタグを付けてから一ヶ月しか経っていないのですよ。それと、先頃からノート:聖絶にお答えをお願いしている要出典タグをベタベタ貼付した行為についてのご説明をお願いします。なお、他の人のご意見も聞いて議論をつくした上でならば、(限定付きながら)記事分割には必ずしも反対いたしません。詳しくは明日にでも聖絶のノートで書きますが、履歴の統合など色々と配慮しなければならない点が多々あるので、Wikipediaの手続きを無視せず、議論の合意が得られてから粛々と編集をなさって下さい。合意形成ができる前に記事の整合性を壊すような編集や、今回に限りませんが逸脱と判断されかねないような編集は、ウィキペディアンとして控えてほしいということです。ちなみに、私はWikipedia上の包摂主義の立場で編集しているつもりですが、イザヤさんは排他主義の立場で編集しているようですね。だからといって包括主義の立場の編集を排除してよいということにはなりません。あくまで誠実で理性的な議論を尽くさなければウィキペディアンはつとまらないと考えます。以上ご理解下さい。--Bokemiann 2011年1月24日 (月) 17:40 (UTC)
- コメント私だって過去に問題があると判断した記述を削除したことは何度もあります。ただ、段々とコメントアウトで対処することが多くなりましたが。また、削除ではありませんが、自由主義神学を異端とするような記述が為されれので即リバートしたことがあります。逆に福音派に対して同様な編集があれば瞬殺します。ただ件の編集では、そのような逸脱編集でもないのにまず「削除ありき」の姿勢で臨まれたので、そのような行為に対して異義を申し立てているのです。これは私だけの解釈ではないと思いますが、出典要請タグが付された記事を安易に削除してよいとは考えておりません。従って、この件に関してはあなたの編集態度に明確に非があると私は判断しています。幸い編集合戦は終わっているので当該ページでは問題にしておりませんでしたが、今回また編集合戦になったので、よい機会だと思い、再度あなたの編集態度に疑問を呈したまでです。排他主義にも限度があります。これについては撤回はいたしません(あなたの行為とは別に、Wikipediaの規則の運用に関する一般的な問題として何れ井戸端か然るべきノートページにて問題提起をする予定です)。--Bokemiann 2011年1月24日 (月) 20:00 (UTC)
- むしろ批判的な見解は大いに書かれるべきで、項目が足りないとさえ考えています。たとえば、批判的なグループとしてよくとりあげられるen:Jesus Seminarはまだ項目さえありません。でも明らかにこの系統と考えられる記述が、出典なしに書いてあったりします。きちんと出典付きで、分けて書かれるべきですね。それに、出典の無い記述が書かれて即削除された例を何度も見ました。出典がなく、書かれてから何年もたち、タグが付いてから一か月もたった記述を削除したことについて私に責めがあるとは思いません。--イザヤ 2011年1月24日 (月) 14:45 (UTC)
- コメント
- Bokemiannさんに色々申し上げます。
- Bokemiannさんはキリスト教の専門事典ではないとして「一般の百科事典」として記事を構成しようとされておいでのようですね。気になるのですが、Bokemiannさんは「キリスト教の専門事典」よりも「一般の百科事典」の方が記述量が少ない、もしくは記述は最小限で済む、とお考えのようです。
- しかしそこには私から異議が御座います。ウィキペディアの求めるNPOVを達成するには、「キリスト教記事」として構成するよりも「一般の百科事典」として構成する方が、必要とされるリソースが膨大になるなのです。
- 日本の「百科事典」は自由主義神学・高等批評を是とする立場のみ書いてあればそれで良しとされますし、キリスト教専門辞典でもそういうものが沢山あります(岩波キリスト教辞典とか、聖書大事典とかみれば分かります)。
- ですがウィキペディアの求める水準はそのようなものではありません。少なくとも同様のガイドラインを運用している諸外国語版は、両論併記、それが出来なければ記事分割するのが一般的なのです。諸外国の「事典」を見れば、日本におけるものより遥かに、保守派・伝統主義者の主張が両論併記されているものがあります。
- 「キリスト教事典ではないのだから、キリスト教以外の立場の主張を書けば良い」というのは、ウィキペディアにおいてはPOVです。もし「日本政府の事典ではないのだから、日本以外の国家の主張を書けば良い」と言い換えたら、奇異に映るでしょう。
- 北方領土問題については「日本国の言い分」「ロシア連邦の言い分」を併記するべきであり、必要に応じて第三者(国連・他国など)の主張も併記されるべきであり、いずれか当事者の一方の主張が載る記事であってはなりません。
- 同様に、キリスト教関連の記事についても、「保守派の言い分」「リベラルの言い分」といった対立が起きている問題については、併記が妥当です。
- しかもキリスト教の場合、領土問題と違って二項対立ではなく(
南沙諸島やカシミールのように三カ国が絡んでいるケースもありますが、領土問題の場合、多くて当事者は三者です)、多数の当事者が絡んでいます(東方VS西方、ローマンVS聖公会VSプロテスタント、カルヴァン主義VSアルミニウス主義、リベラルVS福音派)から、神経を細かく使わなければなりません。 - どれほどリソースを投入しなければならないかという例では、当方の要求水準としては復活 (キリスト教)、地獄 (キリスト教)を示します。
- ユダヤ教までこれに加えるとなったらさらに大変です。ですから観点ごとに分けなければならない場面というのが出て来る一般論自体は、イザヤさんに賛成です。
- ただし具体的な個別の事例では、イザヤさんと激論している場面も数多いです。
- これが取り敢えず、今私から申し上げられる前提です。--Kinno Angel 2011年1月25日 (火) 09:27 (UTC)
- 南沙諸島は当事者、もっと多かったですね…失礼しました(大汗)。ですが論旨は変わりません。当事者が増えれば、ウィキペディアの方針であるNPOVを達成するのは必然的に大きなリソースが必要ということです。南沙諸島領土問題(英語版)も御覧下さい。当事者が増えると領土問題でもここまで労力がかかるということです。--Kinno Angel 2011年1月25日 (火) 09:35 (UTC)
- コメントいささか誤解があるようなので、コメントいたします。キリスト教の項目を必ずしも一般事典として構成するべきだとは考えておりませんし、また、私はWikipedia上の包括主義の立場を取っているので、ネット事典の利点があるのだから、必要ならば幾らでも書いてよい、書くべきだと考えています。また、どうして誤解されたのか分かりませんが、イザヤさんの誤解による発言に引きずれたのでしょうか? 私は「キリスト教事典ではないのだから、キリスト教以外の立場の主張を書けば良い」などと誰に対しても一度も言ったことはありませんし、ユダヤ教についても加筆しろなどと主張したつもりもありません。聖絶とは旧約聖書にのみ見られる事例(翻訳)なので、これを取り上げると、どうしても旧約に関する聖書学的な記述にならざるを得ないのです。福音派の事典でもそういった扱いがされています。私の舌足らずも与って、それをイザヤさんがユダヤ教の記述まで含めろと言っていると誤解の上でここで発言されたのです。確かに聖絶のノートページでの「キリスト教に偏りすぎ」的な発言は多少拙速の感があったことは認めますし、それが誤解の原因のひとつでしょうが、上記の誤解については、後でノート:聖絶にて詳しくお答えします。ただ、ここはWikipediaという一般の百科事典でもあるのだから、キリスト教の専門記事を作成するに当たっても、Wikipedia上の整合性を第一に考えて編集するべきだと申し上げているだけです。イザヤさんの編集に護教的な意図を感じて、NPOVを保持するようにという意味合いで「ここはキリスト教の専門事典ではない」と再三にわたって申し上げたのです。下で例を出しますが、イザヤさんの編集は福音主義に甘く、リベラルや超教派に厳しいと感じています。私が余りNPOVという表現を日頃から使っていなかったため、このような表現になってしまい、私の分量力のまずさから誤解を与えたことを心からお詫びいたします。
- 余りイザヤさんのことばかり例としてあげたくないのですが、たとえば福音派#エキュメニカル派との関係の最新の編集ですが、水草修治『ニューエイジの罠』を出典にしての編集はいささか問題だと感じました。ウォッチはしていても普段編集していない項目だし、その時はそのままにしたのですが、前半の「福音派では宗教多元主義を偶像崇拝と捉えてる」云々は問題ないとしても、後半の死者の霊を呼び出したとかいう文章は蛇足、ハッキリ言ってゴシップ記事のような印象を受けました。件の本は私も読んで知っていますが、決して悪い本とは思わないまでも、この箇所で百科事典の注記に上げる文献としてはいささか不適切だと思います(降霊術云々がなければまだしもです)。彼の編集の全てを見ているわけではなく、偶々目についた編集を取り上げたのですが、一方では、このような書籍を出典に挙げて中立的とは言い得ない編集を行ない、他方では、聖絶の項目に見られるように、Wikipedia上上の「排他主義」ないしは削除主義で臨むというのは、編集姿勢が私には不統一で不適切と見えます。「排他主義」なり「削除主義」で編集に臨むならば、リベラルな項目だけでなく福音主義の項目の編集にも同じ姿勢で臨まないと不適切だと思います。今回私が編集合戦を引き下がらないで頑張っているのはこういう彼の態度があってこそなのです。このどこがNPOVというのでしょうか? Kinno Angelさんのおっしゃることに特に異論はないのですが、このような編集を容認することがキリスト教項目でのNPOVだというのならば納得はできません。それも踏まえての「ここはキリスト教の(護教的な)専門事典ではありません」発言だったわけです。-Bokemiann 2011年1月25日 (火) 13:40 (UTC)
(お知らせ)ノート:聖絶#議論の経緯について(by Bokemiann)にて、編集合戦の経緯と誤解に対するお答えを書きました。後者については今後加筆修正するかも知れませんが、これだけ説明すればお分かりいただけるものと思います。なお、私も月末で仕事がありますので、議論から暫く離脱しなければならなくなりかも知れません。今日中に改名&統合提案と限定付きの分割受け入れ案についてもアップしたかったのですが、後日ということでご了承ください。--Bokemiann 2011年1月25日 (火) 17:30 (UTC)
- 世界教会協議会(WCC)の資料も多く集めてありますので、WCCの公式の資料から、大幅加筆の用意があります。WCC自身の資料もありますし、WCCと異教の問題についての資料も多くあります。--イザヤ 2011年1月25日 (火) 23:05 (UTC)
イザヤさんに対して苦言を呈します。
合意形成ができる前に記事の整合性を壊すような編集や、今回に限りませんが逸脱と判断されかねないような編集は、ウィキペディアンとして控えてほしいとお願いしておいたばかりです。それをなぜ無視して編集を為さったのですか? イザヤさんのお考えをお聞きしたく考えます。まさか私が本件での活動を暫く離脱すると先に表明したからどさくさに紛れて作業されたのではないですよね? 間違いであったら謝罪しますが、あなたの編集活動を見ていると、そんな風に勘ぐりたくもなるのです。私も条件付きながら改名&統合提案を引っ込める方向で傾きつつありましたが、それとは別に本記事は再度リバートすることも考慮中です。それと、最終的にはあなたの一連の行為や編集姿勢につきWikipedia:コメント依頼と「聖絶」をWikipedia:保護依頼に提出することも考えていますが、それでもよろしいでしょうか。今まであなたとぶつかっても、不思議と感情的にならず、激しいけれど冷静な気持ちで対処していましたが、仏の顔も三度まで、もうこれが限度です。本当に腹を立てています。それと、正直、呆れ果てています。ここで議論をすればそこまでゆかずに落としどころが見つかると信じていましたが、相手が悪すぎたのでしょうか? 私の希望が甘すぎたのでしょうか? --Bokemiann 2011年1月26日 (水) 03:37 (UTC)
- (お知らせ)大分迷ったのですが、聖絶の項目をリバートしました。また、幾ら誠実に議論してもその議論を無視するだけなので、甚だ不本意ながら先ほどWikipedia:保護依頼を行ないました。保護依頼が受理されるかどうかは分かりませんが、また、余り民主的な手段ではありませんが、合意形成されるまでイザヤさんには編集を待ってもらうことにしました。--Bokemiann 2011年1月26日 (水) 06:22 (UTC)
ちょっと待って下さい、ストップ!
[編集]- コメント クールダウンのための編集保護は妥当と考えます。ただ、Bokemiannさん、コメント依頼については48時間は待って頂けませんか。少なくともブロック依頼については48時間は待って頂きたいです。(Bokemiannさんの言い分が全て正しいものと仮定して右の話を進めますが)もしBokemiannさんの御懸念が正当なものであれば、48時間の間に事例が蓄積するでしょう。もしBokemiannさんの御懸念が杞憂であれば、その間に事態は沈静化するでしょう。これは、私の会話ページ、Bokemiannさんの会話ページにも同文を書いておきます。--Kinno Angel 2011年1月26日 (水) 08:51 (UTC)
- コメント ノート:聖絶に、Bokemiannさんの経緯まとめでイザヤさんからは異議ないかどうか、問い合わせをしました。仲裁させて頂こうにも事態がどんどん進んでしまって居まして、第三者からは手も足も出せない状況です。お二方とも「相手が色々と強行するのが悪い」とお感じかもしれませんが、ここは一旦、止まって頂けませんか。Bokemiannさん、イザヤさんからの経緯についての異議があるか無いか、示されるまで待って頂けませんか。お二方の言い分まとめが無いと、事態を理解しようとしても、展開が早過ぎてついていけていない現状、第三者としてはどうしようもありません。--Kinno Angel 2011年1月26日 (水) 09:08 (UTC)
- コメント履歴の確認は大変煩雑なため、参考までに日付とリンクを該当ノートページに貼付しておきました。--Bokemiann 2011年1月26日 (水) 12:31 (UTC)
- (お知らせ)ノート:聖絶にお互いにとって一番よいであろう解決策をノート:聖絶#条件付き分割(≒現状維持)賛成案提案しておきました。また、出典のない記述の削除の可否について、Wikipedia:井戸端#検証可能性の「出典を示す責任は掲載を希望する側に」の解釈についてにて問題提起をしました。これは以前から考えていたことで、イザヤさんとの関わりがメインではありません。一般論としてのものですが、参考になると思いますので、お知らせしました。--Bokemiann 2011年1月26日 (水) 16:37 (UTC)
- 報告 2/9朝(UTC)には聖絶の保護が解除されます。ノート:聖絶にて最終的な案を提案しましたが、提案より4日ほどたちながら、賛否も何もまだ誰からも表明されていません。このままだとまた前のような編集合戦になりかねませんので、皆さんも賛否またはご意見があれば積極的に表明して下さるとありがたいです。以上よろしくお願いします。--Bokemiann 2011年2月7日 (月) 07:15 (UTC)
イエス・キリスト関連記事群の、統廃合を含めた抜本的構成整理の必要性
[編集]重要な項目群について議論が発生しました(提起されたのはイザヤさんですが、私から抜本的整理について提案しております)。ノート:救世主イエス・キリストを是非とも御覧頂きたく思います。--Kinno Angel 2011年1月23日 (日) 09:31 (UTC)
聖書に出てくる人名の表記
[編集]Wikipedia‐ノート:記事名の付け方の議論を履歴継承の上、転記しました。
聖書の登場人物で「とりあえず『新共同訳』の表記に準ずるのがよいかと思います。」ということで、『新共同訳聖書』に準ずることになったようですが、佐波亘著『植村正久と其の時代』、『新聖書辞典』、『聖書翻訳を考える』(いのちのことば社)、鈴木範久著『聖書の日本語』(岩波書店)などをみればわかるように、新共同訳は日本語に大きな影響を与えた『文語訳聖書』の大正改訳の表記と異なっており、広く使われた慣用表現を変えてしまったことに対しては批判があります。新共同訳聖書はWCC系エキュメニズムという戦後一部で盛んであった運動を反映しているに過ぎないのであり、「聖書に出てくる人名の表記」を日本語に大きな影響を与えた文語訳の大正改訳聖書に準ずる表記にあらため、教会で公式に使われる翻訳聖書のうち、新共同訳一つではなく、複数の翻訳聖書で使われる表記を優先するように提案します。新共同訳でしか採用されていない表記が多くあります。--イザヤ 2011年1月22日 (土) 00:27 (UTC)
- 記事名の付け方冒頭文からすれば、各翻訳聖書の出版部数も考慮する必要があるかと思います。各翻訳聖書の出版部数情報は入手可能でしょうか。出版部数の確認が難しければ、刷数とその間隔から類推することは可能かもしれません。--Jms 2011年1月22日 (土) 00:37 (UTC)
- コメント うーーーん……………
- 心情的には賛成したいところなのですが…そしてかなりの部分で正論を含んでいるとは思うのですが…
- 実際、「普及している新共同訳に準拠する」と言った方が、趣旨としては60点だったとしても、運用はラクだというのがあるのですよね…。逆に、「複数の翻訳聖書で使われる表記を優先する」とやると、趣旨としては100点だったとしても、運用は困難になるという…
- 「複数の翻訳聖書」という中に、何を入れるのかというところで意見が分かれるでしょうし、大変面倒になるのではと思います。日本語ヘクサプラは参考になるかもしれませんが…(しかしこれには新改訳聖書は入っていません)。…心情的にも、中立性の観点からも、賛成したいのはやまやまなのですが…
- 「いや、大変じゃない。具体案としてはこれこれ」と言われれば、賛成に転じる事は有り得ますが…--Kinno Angel 2011年1月22日 (土) 05:34 (UTC)
- コメント「複数の翻訳聖書で使われる表記を優先するように提案します。」すみません。この言葉の意図が今ひとつ汲めないところがあります。主要日本語聖書を全部精査し一番使われている表記を採用すると言うことでしょうか。だとするとかえって混乱が…現状の私の見解は現在日本語話者にとって入手が容易な「一つの日本語聖書」に基づいた記事名にした方がすっきりすると思います。ただそれが必ずしも新共同訳である必要はないとも考えています。口語訳だってよいとおもいます。私自身は「新改訳」を常用していますので、jawpの記事名と違うことが往々にしてあることは承知しています。でも聖書記事に関するネーミングは私も前々から思うところあり、イザヤさんのご提案はいい機会だと思いました。プロジェクト:キリスト教で詰めた方がよいかと思います。--Sillago 2011年1月22日 (土) 06:25 (UTC)
- イザヤさんの「複数の翻訳聖書で使われる表記を優先する」案ですが、日本語聖書を思いつくまま挙げていくだけでも、日本正教会訳、新共同訳、口語訳、新改訳(2版と3版で若干違う)、文語訳、詳訳聖書、回復訳、バルバロ訳、田川健三訳、リビングバイブル等々。。。個人訳もありますよね。新世界訳は入れますか?「複数」と数だけで勘定するとえらいことになるのは目に見えています。ほとんど流通していない聖書は特段の事情がない限り除外するのが良いのではないでしょうか。私の案は「流通量の一番多い聖書」を人名の基準つまり記事名とし、日本正教会訳、新共同訳、口語訳、新改訳での各表記をテンプレートを用いて右上辺りに表示するのはどうか、というところです。人名に限らず聖書に出てくる固有名詞すべてが対象では。例えばEcclesiastesはそれぞれ「(不明)」、「コヘレトの言葉」、「伝道の書」「伝道者の書」ですか。容易に入手可能な文語訳もいれるならば「傳道之書」が加わります。仮にイザヤさんの案を受け入れるとしても、聖書の種類は絞るべきでしょう。以上の提案は私自身の好みは一切無視して、ウィキペディアを閲覧する側から立って考えています。--Sillago 2011年2月1日 (火) 17:54 (UTC)
- 私としては一般に流布しているであろう聖書、たとえば『新共同訳』に準拠としてしまった方が楽だし、今後問題も起こらないと思います。理想を言えば、『新共同訳』に準拠しながらも、慣用的に使用されている項目はそれを用いる(例:
「コレヘトの言葉」は「伝道の書」「ペトロ」は「ペテロ」など)、そして、採用されなかった項目名はリダイレクトとするというのがよいと思うのですが、Wikipediaの性格上、新規参加者のことを考えると、運用は労の方が多いと思います。よって、原則どれかの聖書に準拠として、場合によっては個別に考えることも許容するというのがよいのではないでしょうか?--Bokemiann 2011年2月7日 (月) 06:53 (UTC)- Bokemiannさんのご提案はイザヤさんと私の折衷的なものでしょうか。この場合、1.もっとも「一般に流布している聖書」を確認する必要がありますね。ネットで簡単に検索した限りではよく分かりませんでした。とりあえず日本聖書協会、日本聖書刊行会等に問い合わせしてみましょうか。2.「場合によっては個別に考える」を具体的詰める必要があります。今までの流れを鑑みるにBokemiannさん案がとりあえず通ってもこの点において紛糾する恐れがあります。多角的に考えるにどの聖書にも「良い点」、「悪い点」と見なされる部分はあるのですから、自分の一番良いという聖書をごり押しするのはウィキペディアの観点から見てよろしくないでしょう。「一般に流布している聖書」を総発行部数とするか、直近(2010年の発行部数など)とするか、採用している教会の数とするかも詰める必要があるでしょうね。ああ、大変ですね。--Sillago 2011年2月7日 (月) 13:55 (UTC)
- 私の意見はKinno Angelさんのコメントに一番近いと思います。異論があればそのつど考えればよいことですが、とりあえずは『新共同訳』に準拠とした方が無難だと思います。聖書の発行部数だけではどの聖書を使うかは決めない方がよいと思います。イザヤさんの意見はプロテスタントの翻訳聖書に偏っているとは言え、イザヤさんの言う意味で人口に膾炙しているのは文語訳や口語訳ですし、口語訳は私も一番親しんでいる聖書です。私が新共同訳を推すのは、専門書を含む様々な書籍で新共同訳に準拠したものが多いというにすぎません。人名ではありませんが、「コレヘト」とか聞いて「へ?」という人がまだまだたくさんいると思います。私も未だにパリサイ人と言っていますし。そういう例外は認めるのに反対はしませんが(むしろ賛成ですが)、原則は「どれかの聖書(新共同訳か口語訳)に準拠」としてしまった方がよいと思います。--Bokemiann 2011年2月7日 (月) 14:33 (UTC)
- Bokemiannさんのご提案はイザヤさんと私の折衷的なものでしょうか。この場合、1.もっとも「一般に流布している聖書」を確認する必要がありますね。ネットで簡単に検索した限りではよく分かりませんでした。とりあえず日本聖書協会、日本聖書刊行会等に問い合わせしてみましょうか。2.「場合によっては個別に考える」を具体的詰める必要があります。今までの流れを鑑みるにBokemiannさん案がとりあえず通ってもこの点において紛糾する恐れがあります。多角的に考えるにどの聖書にも「良い点」、「悪い点」と見なされる部分はあるのですから、自分の一番良いという聖書をごり押しするのはウィキペディアの観点から見てよろしくないでしょう。「一般に流布している聖書」を総発行部数とするか、直近(2010年の発行部数など)とするか、採用している教会の数とするかも詰める必要があるでしょうね。ああ、大変ですね。--Sillago 2011年2月7日 (月) 13:55 (UTC)
(インデント戻す)なるほど。イザヤさんの主張する「新共同訳聖書は(途中略)広く使われた慣用表現を変えてしまったことに対しては批判があります」という面についてはBokemiannさんも同意見と捉えました。コヘレト然り、ファリサイ派然り。。。批判の一方であえてそうした理由がありそれを評価する向きもあるのではないでしょうか。100%批判だらけの聖書ならすぐに消えていることでしょう。でも30年以上改訂もなく使われています。私は仮に「新共同訳」と決めたなら、それにしたがったほうが良いと思います。後で大もめすることが確実なルールをつくるより、「例外なし、以上」にした方がよいと思います。最初にもめて、後すっきりの法がよいと思うのです。1年なり期間を決めた後見返してみて、やっぱりおかしいなあと思ったら、またそのとき考えればよいのでは。私はもっぱら新改訳聖書の読者であり、エキュメニカルに賛同する気はさらさらありませんが、ここはウィキペディアです。読者の便を考えるべきだと。あと、人名だけに限定するのはおかしいですよ。。--Sillago 2011年2月7日 (月) 15:31 (UTC)
キリストを冒涜する名称をユーザー名とする人物について
[編集]ユダヤ教徒がイエス・キリストを汚し、冒涜する時に使うヘブライ語の名称をユーザー名として活動している人物が、ノート:ヘーレムで、「総意というのは「今後の聖絶関連の記事の編集は我々にお任せください」ということなのですが、今さら異論はないでしょう。」などといい、キリスト教の神学用語、聖書の語句である聖絶を、Bokemiannさんが「ユダヤ教とキリスト教に共通の項目」として作成したヘーレムに統合すると主張しています。Bokemiannさんが用いた出典はマックス・ウェーバーの『古代ユダヤ教』の聖戦などであり、これを聖絶に統合するというのはナンセンスな主張です。イエス・キリストを冒涜する語をユーザー名にする人物に、Sillago氏とジャムリン氏が同調している状態です。彼の行為はウィキペディアにおいて不適切な行為です。その行為はキリスト教プロジェクトに対する挑戦、いやウィキペディアに対する挑戦、荒らしと受け取られて仕方のないものです。聖絶は『新聖書注解』、『ウェスレアン聖書注解』、『聖書の講解』、『66巻のキリスト』等、私が付けた複数の出典で、イエス・キリストの十字架の救いと神の愛、キリストの血を教えています。しかし、彼らは新約聖書もキリスト教神学も無視して、「ヨシュア記の時代に行われた宗教的迫害」という話に変えてしまおうとしています。その観点であればヴォルテール、リチャード・ドーキンスのような神信仰に対する非難、また現代国家イスラエルのイスラエル・パレスチナ問題との関わりで言及される内容であり、非キリスト教的な主張です。もし統合したいのならば、他の項目、聖戦やパレスチナ問題に統合されるべきです。--イザヤ 2011年4月13日 (水) 22:36 (UTC)
- はじめまして。ימח שמו וזכרו と申します。イザヤさんの履歴を辿ってみたところ、ここにもコメントがあるのに気付いたので書き込ませていただきます。わたしがこの問題に介入しているのは2月16日に「聖絶」から「ヘーレム」へと改名された項目を「聖絶」に再改名して元の状態に戻したいからなのです。そのうえでユダヤ教の概念に則した「ヘーレム」の項目を立項したいのです。それ以外に他意はございません。なぜならヘーレムとはユダヤ教やユダヤ文化において使用されてきた概念だからです。聖絶関連の項目は現在「ヘレム」「ヘーレム」「アナテマ」「聖絶」という具合に混沌とした状態なのですが、ここまでの混乱を引き起こしたそもそもの原因は、わたしはイザヤさんではなく、イエスの信者を自称されるBokemiannさんにあると考えております。この方が行った2月16日の改名がすべての元凶なのです。明らかな判断ミスなのです。これについての考えをうかがいたくこの方とは何度も対話を試みたのですが、ご自身の判断ミスを認めたくないのか、忙しいを理由に対処にあたろうとせず、先日ついに逃亡宣言をなさいました。というわけでやむを得ずこの方の尻拭いをしているというのが真相なのです。わたしが ימח שמו וזכרו というアカウント名を選びたくなるのもうなづけましょう。わたしはこういった事務的な作業の経験がございませんので、有志がおられるのであれば改名作業を代行していただきたく存じております。キリスト教の側の不始末はキリスト教の側で後始末をしてほしいものです。もちろん代行を引き受けてくださらなくとも週末には作業を開始するつもりでおります。作業に行き詰った場合は皆様の知恵をご拝借にうかがうかもしれませんので、そのときはよろしくお願いいたします。--ימח שמו וזכרו 2011年4月14日 (木) 13:50 (UTC)
プロテスタントとイスラームの類似性ほか
[編集]- プロテスタントとイスラムで、「オスマン帝国は宗教的に寛容であった」と、何の比較対象の断りも無い記述がある他、プロテスタントとイスラームが教義的に似通っている旨の記事構成が(一文どころではなく段落単位で)あります。このトンデモ説の寄せ集めのような現状の記事に対し、ノート:プロテスタントとイスラムにて、御意見宜しくお願いします(現時点では私の意見は「正教執筆者のキモチ」扱いで終わっています)。--Kinno Angel 2011年12月5日 (月) 05:45 (UTC)