プロジェクト:アウトリーチ/テレビ企画 202101/のりまき
2021年1月31日に放映された、林先生の初耳学の出演報告です。
当初の密着取材計画
[編集]私は今回、記事執筆の密着取材+スタジオ出演という役回りでしたので、記事の執筆とその取材をメインにお話したいと思います。
青子守歌さんからテレビでWikipediaを取り上げるので、取材協力者を募集しているとのお話を伺ったのは、2020年12月10日頃のことだったと記憶しています。今回は、スタジオでウィキペディア全般について説明するウィキペディアンの他に、記事の執筆過程を“密着取材”して、執筆をメインに行うウィキペディアンも取り上げる企画とのことでした。オンエアは最初から1月末の予定でした。
当初、番組中で執筆過程を密着取材される記事は、新着そして月間新記事賞→GAを獲るようなレベルが高いものを希望しているとのお話でした。密着取材、収録を時期を考えると、記事の執筆にかけられる時間は約1月程度になるだろうと考えました。正直、新着はともかくとして、月間新記事賞→GAを獲れるような記事を準備から始め、資料集め、執筆までを1カ月で済ますのはかなりハードルが高いと感じました。
数日後、青子守歌さんから執筆者としての出演オファーが届きました。テレビ局側の要望としては、執筆の密着取材の他、出来れば自宅、家族そして職場の取材もしたいとのことでした。さすがに職場の取材は無理ですが、私の場合、家人が比較的協力的であるため、記事の執筆に加え、自宅、家族の取材はある程度対応できる旨をお伝えしました。
記事作成の密着取材となると、パソコンに向かって記事を書いている姿よりも、現地取材と図書館での資料探し+資料コピーの様子等を撮ってもらえればと考えました。記事の題材として何が良いかな?と考えていると、ふと小学校の頃、家にあった事典に載っていたある鉱山のことを思い出しました。事典の内容は確か板ガラスの製造工程を説明していて、その中で伊豆半島にガラスの原料を採掘する鉱山があると書いてありました。伊豆半島ならば東京からも比較的近く、現地取材の様子を撮ってもらうのに都合が良さそうです。調べてみるとかつて西伊豆町宇久須にガラスの原料である珪石を採掘していた鉱山、伊豆珪石鉱山があったことがわかりました。さらに調べてみると伊豆珪石鉱山は戦後まもなくの時期、日本の板ガラス原料のほとんどを賄っていたことがわかりました。伊豆珪石鉱山は日本の板ガラス産業を支えていた重要鉱山であったわけで、項目としての重要性があって新たに記事を立てる意味も大きそうです。
資料を集め始めたところ、大きな課題が見えてきました。伊豆珪石鉱山を経営していた東海工業はこれまで社史を編纂したことがなく、1950年代以降の鉱山関連の文献が手薄になることに気づきました。この場合、解決方法として考えられるのが地元の図書館に収蔵されている地元自治体関連の資料、そして新聞資料です。確認を進めたところ、伊豆珪石鉱山があった西伊豆町には西伊豆町立図書館があり、地元自治体関連の資料を所蔵していることがわかりました。新聞に関しては、伊東市立伊東図書館に地元紙伊豆新聞のバックナンバーが所蔵されていることがわかりました。そこで1泊2日の日程で現地取材を行い、初日は伊豆珪石鉱山や西伊豆町立図書館等、西伊豆町の現地取材。2日目に伊東市立伊東図書館に行く計画を立てました。
2020年末に行われた、オンラインによる打ち合わせの席でこの提案を説明したところ、テレビの撮影側も賛成したため、1月9日、10日の1泊2日の予定で伊豆半島に現地取材へ行く計画を決めていきました。なお年末の打ち合わせでは作成した記事が新着記事、月間新記事賞、GAを獲ることについて、撮影側としてはさほどこだわっていないことがわかり、少し安心しました。
現地取材の計画とともに、国立国会図書館の遠隔複写等を利用した文献集めを進め、冬休み期間に入ると記事執筆を本格化させました。新型コロナの流行状況が深刻化し、現地取材が可能かどうか不透明感が増していきましたが、1月に入るとテレビ撮影側からも取材予定の場所に連絡を行いました。西伊豆町立図書館から撮影取材許可が出て、1月9日、10日の1泊2日の日程で現地取材を行い、テレビ撮影側からは2名のスタッフが同行することになりました。
対象記事の変更
[編集]ところが1月7日の緊急事態宣言の発令後、静岡県は緊急事態宣言が出された一都三県からの来訪の自粛要請を出しました。そうするとテレビの取材→放映は問題が大きいということで、テレビ撮影側の同行はキャンセルとなってしまいました。キャンセルの連絡を受けたのは1月8日の昼休みのことでした。キャンセルとともに一都三県ならば撮影隊の同行が可能なので、現地取材が出来そうな場所はないか?との話を受けましたが、伊豆珪石鉱山の記事の内容的に一都三県で行けそうな場所は思いつきません。ではいっそのこと記事を変えてみてはどうか?と考えました。
ただでさえ時間が無いのに、1月8日に記事を変えるとさらにスケジュール的に厳しくなります。題材的には記事のスケール的に一都三県の史跡、天然記念物、国宝、重要文化財が良いのではと考えました。早速検索をかけてみたのですが、史跡、天然記念物、国宝には良さそうなものが見当たりませんでした。重要文化財クラスになると未執筆のものがぐっと増えます。関東地方の重要文化財一覧を見ていく中で目に留まったのが、川崎市川崎区の明長寺に所蔵されている重要文化財、葵梶葉文染分辻が花染小袖でした。寺の重要文化財といえば寺の建物、仏像、梵鐘、または寺に所蔵されている文書や手紙類、絵画というのは想像がつきます。寺に所蔵されている服飾が重要文化財?という点に私は興味を持ちました。またかねがねさえぼーさんが、重要文化財に指定された服飾の記事が無いと話しておられたのを思い出し、この機会にやってみるのも良いのではとも考えました。少し調べてみると、徳川家康から下賜された辻が花染小袖で、明長寺に所蔵されるようになるまでの経過も面白そうです。私は1月8日中に葵梶葉文染分辻が花染小袖を代替記事とすることも考えられるとの返事を、テレビの取材側に送りました。
テレビ局の同行取材中止は前日のことでしたので、伊豆半島現地取材はドタキャン出来ずに予定通り行いました。この時点で密着取材対象記事は伊豆珪石鉱山から変更されてなかったので、テレビ取材側からハンディカムを借り、取材旅行に同行した妻が映像を撮ることになりました。番組構成の結果、この伊豆取材旅行の映像はほぼ日の目をみませんでした。
伊豆から帰った後、葵梶葉文染分辻が花染小袖が執筆対象として適切かどうか資料集めを始めました。まず戸惑ったのが論文の話が見えないことでした。これまで服飾の記事は書いたことが無く、専門用語がよくわからないのです。中でも辻が花というのがどのような染物なのかが見えてきません。後になってわかったことですが、私が服飾に不案内である上に、辻が花自体の意味にもあいまいさがあるようです。一方、葵梶葉文染分辻が花染小袖が明長寺に所蔵されるようになるまでに、御館の乱、大坂の陣、越後騒動と歴史的に見ても知名度が高い出来事との関わり合いがあることがわかり、この部分はある程度まとまった記述ができると判断しました。つまり記事的には図書館での資料探しの撮影が可能です。また徐々に集まりだした文献を読むと、葵梶葉文染分辻が花染小袖自体についてもある程度まとまった記述が出来ることがわかりました。
撮影側との打ち合わせを経て、1月中ばの時点で、葵梶葉文染分辻が花染小袖が所蔵されている川崎の明長寺、そして図書館での資料探しの様子を密着取材する方針が固まりました。明長寺は寺の内部の取材は断られましたが、記事的には外観の写真が撮れれば良いので、私が寺の写真を撮る様子の撮影を行うことになりました。そして資料探しの撮影を行う図書館としては神奈川県立図書館と川崎市立川崎図書館が候補となりましたが、Araisyoheiさんによる交渉等により、神奈川県立図書館が撮影を受けてくださることになりました。結局、1月17日に明長寺での現地取材、神奈川県立図書館での資料探し光景の取材、そして自宅の取材と家族へのインタビューが行われることになりました。
1月半ばに行なわれたオンライン打ち合わせの最後に、1月17日の取材予定について最終確認されました。またこの時の打ち合わせで、青子守歌さんとAraisyoheiさんから、対象記事である葵梶葉文染分辻が花染小袖を放送日である1月31日までにはアップするべきであるとのアドバイスを頂きました。確かにその作成状況がテレビ放映された記事が、まだアップされていなければトラブルのもとになるかもしれません。
密着取材、そして本放送
[編集]1月17日は朝の7時半から密着取材でした。取材陣は運転手さんを含め総勢5名。思ったよりも大勢でびっくりしました。まず神奈川県立図書館で資料探し光景の撮影です。さすがに一般利用者と一緒での撮影は出来ないため、図書館側からの許可を貰って開館前に撮影を行いました。撮影時間では資料集めの時間が足りず、開館後には改めて一般利用者として入館して約1時間、資料探しを行いました。
続いて川崎市明長寺に向かいました。事前に解っていたことではありますが、本当に川崎大師の目の前にあってびっくりしました。ここは寺(本堂)の撮影だけでしたので、さほど時間はかかりませんでした。次に撮影側から「執筆予定記事の現地取材ばかりではなく、“道草”をしてしまう場面を撮りたい」とのリクエストがありました。どうも先日のねほりんぱほりんでのSwaneeさんのお話が頭にあったようです。
確かに資料探しや現地取材の中で気になる事物を見つけ、新たな記事を書くことになったことはあります。しかし取材当日それをやれと言われても無理があります。私は現地取材先が川崎であることを考えて、旧東海道にある一里塚を「見つけた」形にして撮影することを提案し、撮影側も了解し、結局、川崎に隣接する横浜市鶴見区鶴見市場の旧東海道一里塚で撮影を行うことになりました。その後、自宅で取材撮影と家人へのインタビューを行いました。取材が終わったのは午後3時過ぎで、結構長丁場で疲れました。当然、カメラが回っていた時間は長いのですが、テレビで使用されたのは約5分です。ただ自分としては1月21日に行われたスタジオ撮影と比べてそんなに“削られた”感はありませんでした。
記事執筆密着取材の後、放送当日まで記事をアップすることに注力しました。今回の出演者である青子守歌さん、Araisyoheiさん、私は、3人とも1月23日のウィキペディア20年イベントでの役目がありました。私は20年イベントの準備と記事作成が重なり、相当大変でした。1月21日は一日スタジオ撮影でした。本当、初めてのことばかりで良い経験をさせていただいたと思います。色々感じたこと、考えたこともありますが、必ずしもWikipediaと関係がない事項が多いため、割愛したいと思います。1月25日に葵梶葉文染分辻が花染小袖、翌日、伊豆珪石鉱山の記事をアップし、とりあえずほっとしました。
終了後ならびに感想
[編集]1月31日の本放送を見て、自分としては正直気が抜けた感じになりました。密着取材、スタジオ撮影、20年イベント、記事作成、そして本放送と重なり、終わってホッとしたのだと思います。テレビ局側としては「撮りたい絵」のようなものがあり、ウィキペディアンとして伝えたいこととの間にどうしてもギャップは生まれてしまいます。その一方としてテレビ局を始めとしたメディアの社会的な影響力は大きく、上手く付き合っていけばウィキペディアの敷居を下げることが出来るのではないかと思います。今回のテレビ出演でWikipedia、ウィキペディアンの社会的な認知に少しでも貢献できたとしたら嬉しいです。今後、より多くのウィキペディアンがテレビ等のメディアに登場していくことを期待しております。
最後に、撮影取材への協力と丁寧なレファレンスをして下さった西伊豆町立図書館、神奈川県立図書館、資料探しの協力をして下さった伊東市立伊東図書館に感謝して、私の報告を終わりにします。