ヘルフタのゲルトルード
ヘルフタのゲルトルード | |
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神秘家、修道女 | |
生誕 |
1256年1月6日 不明 |
死没 |
1301/1302年 神聖ローマ帝国、ザクセン州、ヘルフタ |
崇敬する教派 | ローマ・カトリック教会 |
列聖日 | 1677年 (相当) |
列聖決定者 | クレメンス12世 |
記念日 | 11月16日“Laudate”. 2020年11月17日閲覧。 |
象徴 | 冠、百合、小蝋燭 |
守護対象 | 西インド諸島 |
ヘルフタのゲルトルード(Gertrud von Helfta, 1256年1月6日 - 1301/1302年)あるいは大ゲルトルートは[1]、ドイツの神秘家、ベネディクト会の修道女で、人間に対して神の愛が無限かつ無償で注がれることを説いた『神の愛の使者』[2]とラテン語の祈祷集である『霊的修行』[2]を記したことで知られる。
生涯
[編集]両親や出身地については不明である[3]。1261年にザクセン州のアイスレーベン近郊にあるヘルフタ修道院附属学校に預けられる[3]。幼少期から勉学に長け、特にラテン語を得意とした[4]。幼少期はアレクサンドリアのカタリナや聖アグネスに傾倒する[5]。1280年の待機節から翌年2月2日まで、精神的な問題に見舞われる[4]。同年1月27日に神秘体験である聖籠の幻視を経て、霊的生活を開始し、神学を学ぶ[4]。神学ではアウグスティヌス、大グレゴリウス、クレルヴォーのベルナルドゥス、サン・ヴィクトルのフーゴーについて学ぶ[6]。ゲルトルードはマクデブルクのメヒティルト、ハッケボルンのゲルトルード、ハッケボルンのメヒティルトらからも影響を受ける[7]。生涯ではそのラテン語を活かして多くの著作を執筆したものの、2002年時点で残っているのは『神の愛の使者』と『霊的修行』に限られる[2]。没年については1301年か1302年の11月17日と考えられている[8]。
没後
[編集]1536年にケルンのカルトゥジア会士であるヨハネス・ランツベルグによって『神の愛の使者』のラテン語版が出版される[8]。1674年にベネディクト会全体でゲルトルードの祝日を祝うことの許可が下り、独自の聖務と讃歌で祝われるようになる[8]。1678年にゲルトルードは『ローマ聖人録』に記載され、1783年に全ての教会でゲルトルードへの礼拝が許された[8]。
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ 狩野智洋「マクデブルクのメヒティルト著『神性の流れる光』の社会的背景(1)私有教会制、修道院改革と11世紀に於ける異端の発生」(pdf)『言語・文化・社会』第13巻、学習院大学外国語教育研究センター、1頁、2015年3月。 NAID 120005612189 。2017年12月2日閲覧。
- ^ a b c 小竹 2002, p. 607.
- ^ a b 小竹 2002, p. 604.
- ^ a b c 小竹 2002, p. 605.
- ^ 小竹 2002, p. 608.
- ^ 小竹 2002, pp. 605–606.
- ^ 小竹 2002, pp. 606–607.
- ^ a b c d 小竹 2002, p. 611.
参考文献
[編集]- 小竹澄栄 著、上智大学中世思想研究所 編「ヘルフタのゲルトルード 神の愛の使者 解説」『女性の神秘家』、中世思想原典集成第15巻、平凡社、2002年4月24日。ISBN 4-582-73425-1。