コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ヘルマン・フォン・ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヘルマン
Hermann
エルンスト系ヴェッティン家

全名
身位 ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公子
出生 (1825-08-04) 1825年8月4日
ザクセン=マイニンゲン公国、アルテンシュタイン城
死去 (1901-08-31) 1901年8月31日(76歳没)
ドイツの旗 ドイツ帝国
バイエルン王国の旗 バイエルン王国ベルヒテスガーデン
埋葬 ドイツの旗 ドイツ帝国
ヴュルテンベルク王国の旗 ヴュルテンベルク王国シュトゥットガルト、プラーグ墓地
配偶者 アウグステ・フォン・ヴュルテンベルク
子女
父親 カール・ベルンハルト・フォン・ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ
母親 イーダ・フォン・ザクセン=マイニンゲン
テンプレートを表示

ヘルマン・フォン・ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハドイツ語: Hermann von Sachsen-Weimar-Eisenach, 1825年8月4日 - 1901年8月31日)は、ドイツザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ家の大公子で、ヴュルテンベルク王国の将軍。

生涯

[編集]

ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公カール・アウグストの末息子カール・ベルンハルトと、その妻でザクセン=マイニンゲンゲオルク1世の娘イーダ英語版の間の三男として生まれた。イギリス王妃アデレードの甥にあたる。1840年にヴュルテンベルク軍に入隊し[1]、陸軍少将となり、1859年よりヴュルテンベルク軍騎兵師団の師団長に就任した。聖アレクサンドル・ネフスキー勲章白鷹勲章聖イシュトヴァーン勲章ヴュルテンベルク王冠勲章を受章した。シュトゥットガルトのヴァイマル通り(Weimarstraße)はヘルマンの家名に因んで名づけられたものである[2]。1901年に亡くなり、シュトゥットガルトのプラーグ墓地(Pragfriedhof)に葬られた。

子女

[編集]

1851年6月17日にフリードリヒスハーフェンにおいて、ヴュルテンベルク王ヴィルヘルム1世の娘アウグステと結婚し、間に2男4女の6人の子女をもうけた。

  • パウリーネ・イーダ・マリー・オルガ・ヘンリエッテ・カタリーナ(1852年 - 1904年) - 1873年、ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公世子カール・アウグストと結婚
  • ヴィルヘルム・カール・ベルンハルト・ヘルマン(1853年 - 1924年) - 1885年、イーゼンブルク=ビューディンゲン=ヴェヒタースバッハ侯女ゲルタと結婚
  • ベルンハルト・ヴィルヘルム・ゲオルク・ヘルマン(1855年 - 1907年) - 1900年にマリー・ルイーゼ・ブロックミュラーと貴賤結婚、1905年に伯爵令嬢エリーザベト・フォン・デア・シューレンブルクと再婚
  • アレクサンダー・ヴィルヘルム・ベルンハルト・カール・ヘルマン(1857年 - 1891年)
  • エルンスト・カール・ヴィルヘルム(1859年 - 1909年)
  • オルガ・マリー・イーダ・ゾフィー・パウリーネ・アウグステ(1869年 - 1924年) - 1902年、イーゼンブルク=ビューディンゲン=ビルシュタイン侯子レオポルト[注釈 1]と結婚

参考文献

[編集]
  • Staatshandbuch für das Großherzogtum Sachsen-Weimar-Eisenach, Weimar 1864, S. 6 (Digitalisat)

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ イーゼンブルク=ビルシュタイン侯カール英語版の長男。1898年継承権放棄。

出典

[編集]
  1. ^ R. Starklof: Das Leben des Herzogs Bernhard von Sachsen-Weimar-Eisenach, Band 2, Gotha 1866, S. 74
  2. ^ Titus Häussermann: Die Stuttgarter Straßennamen, Silberburg-Verlag, 2003, S. 610

外部リンク

[編集]

ウィキメディア・コモンズには、ヘルマン・フォン・ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハに関するカテゴリがあります。