ヘンリエッテ・カロリーネ・フォン・プファルツ=ツヴァイブリュッケン
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ヘンリエッテ・カロリーネ・フォン・プファルツ=ツヴァイブリュッケン Henriette Karoline von Pfalz-Zweibrücken | |
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出生 |
1721年3月9日 フランス王国、ストラスブール |
死去 |
1774年3月30日(53歳没) 神聖ローマ帝国 ヘッセン=ダルムシュタット方伯領、ダルムシュタット |
埋葬 |
神聖ローマ帝国 ヘッセン=ダルムシュタット方伯領、ダルムシュタット、ヘルンガルテン |
配偶者 | ヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ9世 |
子女 | 一覧参照 |
家名 | プファルツ=ツヴァイブリュッケン=ビルケンフェルト家 |
父親 | プファルツ=ツヴァイブリュッケン公クリスティアン3世 |
母親 | カロリーネ・フォン・ナッサウ=ザールブリュッケン |
ヘンリエッテ・カロリーネ・フォン・プファルツ=ツヴァイブリュッケン(Henriette Karoline von Pfalz-Zweibrücken, 1721年3月9日 - 1774年3月30日)は、ヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ9世の妃。当時ヨーロッパで最も学識豊かな女性の一人として讃えられた。
ヘンリエッテ・カロリーネと夫ルートヴィヒ9世は、2023年現在のヨーロッパの全世襲君主の最も近い共通祖先である[1]。
生涯
[編集]プファルツ=ツヴァイブリュッケン公クリスティアン3世と妃カロリーネ・フォン・ナッサウ=ザールブリュッケンの第1子として生まれた。プファルツ系ヴィッテルスバッハ家傍系のプファルツ=ツヴァイブリュッケン=ビルケンフェルト家の出身であるが、甥マクシミリアン・ヨーゼフが後に初代バイエルン国王となっている。
1741年8月12日にツヴァイブリュッケンで、後のヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ9世と結婚した。
カロリーネは「大方伯妃」(die Große Landgräfin)として知られる。これはヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテによって付けられた呼び名である。カロリーネはゲーテの他、ヘルダー、ヴィーラントなどの文人や哲学者たちと交友関係があった。
子女
[編集]夫との間に3男5女をもうけた。
- カロリーネ(1746年 - 1821年) ヘッセン=ホンブルク方伯フリードリヒ5世妃
- フリーデリケ(1751年 - 1805年) - プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世妃
- ルートヴィヒ10世/1世(1753年 - 1830年) - ヘッセン=ダルムシュタット方伯、後にヘッセン大公
- フリーデリケ・アマーリエ(1754年 - 1832年) - バーデン大公子カール・ルートヴィヒ妃
- ヴィルヘルミーネ・ルイーザ(1755年 - 1776年) - ロシア皇帝パーヴェル1世后
- ルイーゼ(1757年 - 1830年) - ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公カール・アウグスト妃
- フリードリヒ(1759年 - 1802年) - ブレスラウ司教
- クリスティアン(1763年 - 1830年)
脚注
[編集]- ^ 2022年9月8日にヘンリエッテ・カロリーネの子孫ではないイギリス女王エリザベス2世が崩御し、息子のチャールズ3世が即位して以降。チャールズ3世の父エディンバラ公フィリップはヘンリエッテ・カロリーネの子孫であった。それまでは、オラニエ公ヨハン・ウィレム・フリーゾとその妻マリア・ルイーゼ・ファン・ヘッセン=カッセルがその座にあった。