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ホレース・フッド

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
サー・ホレース・フッド
Sir Horace Hood
生誕 (1870-10-02) 1870年10月2日
死没 1916年5月31日(1916-05-31)(45歳没)
北海、巡洋戦艦インヴィンシブル艦上
所属組織 イギリス海軍
軍歴 1883年 - 1916年
最終階級 海軍少将
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サーホレース・ランバート・アレクサンダー・フッド: Sir Horace Lambert Alexander Hood,KCB DSO MVO、1870年10月2日 – 1916年5月31日)は、イギリス海軍軍人。最終階級は海軍少将。海軍の名門フッド子爵家の出身。将来を嘱望されたが、1916年のユトランド沖海戦で戦死を遂げた[1]

生涯

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海軍の名門フッド子爵家に生まれる。父は第4代フッド子爵フランシス・フッド、母はエディス・ウォード(Edith Ward、1911年没)[2]。夫妻の三男として生まれた[2][3]

1883年に12歳で海軍に入隊して、練習艦ブリタニカ英語版乗組の訓練生となる。全科目で優秀な成績を収めてブリタニカを去ると、地中海艦隊の装甲艦テメレーア英語版所属となる[1]。以降はマイノーター英語版カライアピ英語版へと転属した。1889年、中尉となる[2]

1890年、昇進試験に合格して大尉に進級した[2][3]。大尉昇進試験では、当時の試験最高得点4,398点(4,600点満点)をたたき出して、試験にパスした[1]

1897年、マフディー戦争下のナイル遠征英語版時、フッドはエジプトに派遣されて砲艦指揮官としてオムドゥルマンの戦いを経験した[1][3]。作戦終了後、中佐に進んだ[1]

南アフリカ戦争では輸送任務に従軍した。1903年に大佐に昇進[2][4]、防護巡洋艦ヒヤシンス英語版艦長となる。翌年、英領ソマリランドでの反植民地闘争英語版に対処すべく、フッドはヒヤシンス水兵や同乗の王立ハンプシャー連隊英語版らを指揮して夜間上陸を敢行、続けて白兵戦により現地勢力を制圧した[注釈 1][1]。フッドはこの上陸戦・白兵戦の指揮で、殊功勲章を受勲した[3][7][5]

1910年から1913年にかけて王立海軍大学に在籍した。1913年5月に少将へと進み[8]、ごく短期間ながら戦艦センチュリオン英語版に乗艦した[1]

1914年、ウィンストン・チャーチル海軍大臣の首席補佐官に転じた[1][2]

1915年5月、新設された第3巡洋戦艦戦隊の司令官に任じられ、戦隊旗艦インヴィンシブルに将旗をかかげた[1]

ユトランド沖海戦

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濛煙をあげて轟沈するフッドの旗艦「インヴィンシブル」を描いた絵画(左)、右の写真では、船端と船尾を残して船体は完全に沈んでいる。

1916年5月31日のユトランド沖海戦では、フッドは第3巡洋戦艦戦隊を率いて参加した。海戦序盤、サー・デイヴィッド・ビーティー司令官率いるイギリス巡洋戦艦戦隊は、ドイツ巡洋戦艦戦隊[注釈 2]を主力のイギリス戦艦部隊ジョン・ジェリコー司令長官直属)へ誘引して撃滅しようと試みた[9]。フッド戦隊はもともとジェリコー主力部隊に属していたが、ジェリコー司令長官はビーティー戦隊の支援にフッド戦隊を派遣した。フッド戦隊は格下の敵偵察艦(軽巡洋艦ヴィースバーデン)を撃破しつつ、ビーティー戦隊と合流した[9][10]

当初、英独ともに双方の主力戦艦部隊が戦場に近づきつつあることを知らなかったが、さきに察知して撃滅しようとしたのはイギリス側であり、ジェリコー主力部隊はドイツ主力部隊丁字戦法で捕捉する態勢に入った[11]。その後、ドイツ主力部隊(ラインハルト・フォン・シェア司令長官直属)も遅れてジェリコー主力部隊を認めて遁走をはじめた。そこで、フッド戦隊はビーティー戦隊とともにこれを追撃したが、同日18時29分、フッドの旗艦インヴィンシブルに敵艦デアフリンガーの斉射が命中し、誘爆を起こしたインヴィンシブルは船体を真っ二つにして轟沈した[11]。フッドも艦と運命を共にし、フッドを含む1,026名の乗組員が戦死した[1][10]

フッドの戦死後、エレン・フッド夫人のもとには二人の幼い息子が残された。この息子2人はのちにフッドの実家の爵位(フッド子爵位)を継ぐこととなる[2]

評価

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歴史家アーサー・マーダー英語版は「将兵中、最高の頭脳のひとり。戦死しなければ、まず間違いなく海軍元帥になっていただろう。」とフッドの戦死を惜しんでいる[1]

栄典

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家族

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1910年1月19日にエレン・ニッカーソン(Ellen Nickerson、1950年没、旧姓トザリン(Touzalin)、A.E.トザリンの娘、G.ニッカーソンの元妻)と結婚して、二人の息子をもうけた[2]。エレン夫人は夫の死後、巡洋戦艦フッド進水式に参加して、同艦の進水を執り行った[13]

脚注

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注釈

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  1. ^ 19世紀末から20世紀初頭、ヨーロッパでは大きな戦争がなかったが、有能な士官がアフリカやアジアでの騒乱に派遣され、現地で陸戦を指揮して評価を受けるケースがしばしば見られた[5]。例えば、ジョン・ジェリコー提督(のちグランド・フリート司令長官)やデイヴィッド・ビーティー提督(巡洋戦艦戦隊司令官)も壮年期に義和団の乱で陸戦を指揮している[6]
  2. ^ ドイツ巡洋戦艦戦隊(フランツ・フォン・ヒッパー提督直属)の側も同様に、イギリス側をドイツ戦艦部隊にひきずりこもうと画策していた。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k Richmond, revised by Marc Brodie, H. W. (23 September 2004) [2004]. "Hood, Sir Horace Lambert Alexander". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/33967 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  2. ^ a b c d e f g h i Heraldic Media Limited. “Hood, Viscount (GB, 1796)” (英語). www.cracroftspeerage.co.uk. Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2023年8月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年11月6日閲覧。
  3. ^ a b c d e Chisholm, Hugh, ed. (1922). "Hood, Horace Lambert Alexander" . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 31 (12th ed.). London & New York: The Encyclopædia Britannica Company. p. 382.
  4. ^ "No. 27512". The London Gazette (英語). 2 January 1903. p. 3.
  5. ^ a b マーレー, ウィリアムソン、シンレイチ, リチャード 著、小堤 盾蔵原 大・ 訳、今村 伸哉 編『歴史と戦略の本質 - 歴史の英知に学ぶ軍事文化』 (下)、原書房東京都新宿区、2011年、20頁。ISBN 9784562046508 
  6. ^ ハンブル (2022), p. 78,86.
  7. ^ "No. 27711". The London Gazette (Supplement) (英語). 6 September 1904. p. 2.
  8. ^ "No. 28728". The London Gazette (英語). 13 June 1913. p. 4218. 2023年11月18日閲覧
  9. ^ a b ハンブル (2022), p. 81.
  10. ^ a b 宮永, 忠将 著、市村 弘 編『世界の戦艦プロファイル ドレッドノートから大和まで』大日本絵画、東京都千代田区、2015年、11頁。ISBN 9784499231527 
  11. ^ a b ハンブル (2022), p. 82.
  12. ^ "No. 29883". The London Gazette (英語). 29 December 1916. p. 12657. 2023年11月18日閲覧
  13. ^ 高木宏之『英国軍艦写真集 British warship photograph collection』光人社、2009年1月、75頁。ISBN 978-4-7698-1415-3 

参考文献

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軍職
先代
サー・
ダドリー・ド・チェア
英語版
海軍大臣補佐官英語版
1914年
次代
サー・ヘンリー・オリヴァー英語版
新設 ドーヴァーパトロール
部隊司令官
英語版

1914–1915
次代
サー・レジナルド・ベーコン英語版