ボリス・ネムツォフ
ボリス・ネムツォフ Борис Ефимович Немцов | |
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2014年2月21日 | |
生年月日 | 1959年10月9日 |
出生地 |
ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 クラスノダール地方ソチ |
没年月日 | 2015年2月27日(55歳没) |
死没地 | ロシア モスクワ |
出身校 | ゴーリキー大学電波物理学部 |
前職 | 研究職、環境保護運動家、ロシア共和国人民代議員、ニジニ・ノヴゴロド州行政長官、知事、第一副首相、燃料エネルギー相 |
所属政党 |
(右派連合→) 人民自由党[1] |
内閣 |
ヴィクトル・チェルノムイルジン セルゲイ・キリエンコ |
在任期間 | 1997年3月 - 1998年 |
ボリス・エフィーモヴィチ・ネムツォフ(露: Бори́с Ефи́мович Немцо́в、Boris Efimovich Nemtsov、1959年10月9日 - 2015年2月27日)は、ロシアの政治家。エリツィン政権で第一副首相。「2008年委員会」の元共同議長。人民自由党に所属[1]。
生涯
[編集]政界進出
[編集]1959年10月9日、ユダヤ人の両親のもとにソビエト連邦ロシア共和国のクラスノダール地方のソチで生まれる。1981年ゴーリキー大学電波物理学部を卒業して、ゴーリキー電波物理学研究所に勤務する。1988年以降から環境保護運動のリーダーとなり、ゴーリキーに原子力発電所建設が持ち上がった際には原発建設反対に動き、反対運動の中核を担った。
1990年ロシア共和国人民代議員に当選し、政界に入る。議会では院内会派「民主ロシア」に所属した。1991年8月のソ連8月クーデターでは、改革派の立場から、エリツィン・ロシア大統領を支持した。エリツィン政権と関係を作ったネムツォフは、1991年エリツィンによって、ニジニ・ノヴゴロド州行政長官(知事に相当。後に知事)に任命された。1993年上院連邦会議代議員に当選。1995年12月ニジニ・ノヴゴロド州知事選挙で再選される。
エリツィン時代
[編集]エリツィンは、1997年3月に連邦政府の第一副首相(住宅建設政策及び独占禁止政策担当)に登用する。同年4月には、燃料・エネルギー相を兼任する。セルゲイ・キリエンコ内閣の第一副首相に任命される。
1997年12月26日、ロシア下院において、「ネムツォフは、無責任な政治家」として非難決議が可決され、1998年、第一副首相を解任される。「第一副首相という立場を利用し、社会を不安定化させる規模の外資を呼び込み、国内経済に脅威を与えた」と訴えられた[2]。
1999年、改革派、リベラル派の結集を図った。1999年12月の下院国家会議選挙に立候補し当選する。2000年1月、下院副議長に選出されるが、リベラル派は、新興財閥との繋がりもあり、勢力が衰えていった。ソチ選挙管理委員会には、「ネムツォフの収入は、1834億ルーブル(3545億円)」と報告されている[3]。
プーチン時代
[編集]2003年12月の下院国家会議選挙では、比例区の議席確保に必要な5%の得票率を獲得することが出来ず、惨敗。右派連合の代表を辞任した。
2004年2月、石油コンツェルン・ネフチノイの取締役に就任。ガルリ・カスパロフ、ウラジーミル・ブコフスキーらとともに「2008年委員会」を結成した。
ウクライナのオレンジ革命では、ヴィクトル・ユシチェンコを支持し、ユシチェンコ大統領が誕生すると大統領経済顧問に任命された。
2007年の下院選挙では比例代表リスト筆頭となったが、 2007年11月25日にサンクトペテルブルクで開いた集会でニキータ・ベールイフ代表らとともに警察に拘束された。 選挙は、得票率0.96パーセントで敗北。12月26日2008年ロシア大統領選挙への自身の立候補を取り下げ、野党勢力による候補一本化の必要性を強調した。
2011年、ドバイで25歳のアナスタシア・オグネワと一緒にいるところをパパラッチに撮られた写真が公開された[4]。この後、ネムツォフはアナスタシアとの関係が3年前から続いていることを認める[5][6][7]。プライベートな写真が公開されたことに関して、ライフニュースの編集長を自分のブログで批判する[8]。
2011年12月4日のロシア下院選挙、ネムツォフらが参加したリベラル系野党「人民自由党」(英語表記はPeople's Freedom Party)は、不法滞在者や死者を支持者とし、政党登録に必要な署名を提出した。そのため、政党として登録されなかった[1]。選挙後、ネムツォフらは、下院選挙にて不正があった疑惑が浮上した際、12月5日より反政府デモを行った(2011年ロシア反政府運動)。 人民自由党は、政党として登録されなかったことに対し、「クレムリンのシナリオだ」、とウラジーミル・プーチン首相を批判した。世論調査では人民自由党の支持率は9%で、比例代表制の下院で議席獲得に必要な「得票率7%」を超えていたとされる[9]。反発を強める野党勢力との会談で大統領のドミートリー・メドヴェージェフが「我々は皆1996年ロシア大統領選挙でエリツィンは勝てなかったことを知っている」と述べたことに対して「エリツィンが合法的な大統領でないなら、プーチンなど彼の後継者たちにどれほど合法性があるのか?」と応じた[10]。
2013年11月、古都ヤロスラヴリにある歴史的なスターリンマンションを購入[11]。
死去
[編集]2015年2月27日、ウクライナ人モデルのアンナ・ドリツカヤとモスクワ市内のレストランで食事をして帰宅する途中、モスクワ川にかかる橋の上で6発の銃撃があり、そのうち4発が背中に命中して死亡した[12][13][14]。犯人とみられる人物はその後ろから来た車で逃亡している[15]。ネムツォフは2日後の3月1日に行われる予定のウクライナへの軍事介入に反対するデモの呼び掛け人だった[16]。2014年にはクリミア併合を強く非難し、さらに2015年2月には、親ロシア派勢力が牛耳るウクライナ東部にロシアは軍事支援していると声を荒らげ、ロシア軍侵攻の秘密情報を入手したことをほのめかしていた。殺害は政治的動機によるものという声も出ている[17]。
2015年2月28日、プーチン大統領は「冒涜的な殺人のまとめ役と実行犯が当然な処罰を受けるよう全ての手を尽くす」とネムツォフの母親に伝えた[18]。
3月1日にモスクワ・サンクトペテルブルクなどのロシアの約10都市や、ウクライナ・リトアニア・ベラルーシにおいてネムツォフの追悼デモが行われ、モスクワ市内では主催者発表で5万数千人(あるいは7万人以上)、警察発表で1万6500人が参加した[19][20]。この際、治安を乱したとして約50人が逮捕されており、ウクライナ議会の議員オレクシー・ゴンチャレンコも一時拘束された[21]。
アメリカ合衆国の首都であるワシントン特別区議会は2018年2月27日、在米ロシア大使館が面するウィスコンシン・アベニューの一角を「ボリス・ネムツォフ・プラザ」に改称した[22]。
活動
[編集]1997年11月1日の日露首脳会談において、エリツィンが「平和条約を締結し、われわれが領土問題をきょう解決すべきだ」と提案し、日本に北方四島を返還しようとした。この時、ネムツォフは「島を全部返す用意があったのは明らかだ。エリツィン氏にとって、平和条約締結は島全体について決断することを意味していた」と断言。四島返還による即時決着を停止する様にエリツィンを説得した。そのため、四島返還の提案を取り下げられた[23]。
人物
[編集]ネムツォフには4人の子供がいる[24]。1984年に妻のライサ[25] との間に長女シャナ(ジャン)が生まれる。シャナはテレビアナウンサーになる[26]。ニジニ・ノヴゴロド州で知り合ったジャーナリスト、エカテリーナ・オディツィワとの間に、1995年に息子アントン、2002年に娘ディーンが生まれる[27]。秘書のイリナ・コロレワとの間に2004年、娘ソフィアが生まれる[28]。2007年、ネムツォフは妻のライサとの関係は終わったが、今後も婚姻関係を続けると述べた[29]。
脚注
[編集]- ^ a b c “ロシア、反政府野党の登録認めず”. 日本経済新聞. (2011年6月22日). オリジナルの2015年3月1日時点におけるアーカイブ。 2011-07-28 閲覧。
- ^ “ロシア連邦の連邦議会の下院の決議 1997年12月26日”. ロシア連邦-連邦議会. (1997年12月27日). オリジナルの2012年9月7日時点におけるアーカイブ。 2015-02-28 閲覧。
- ^ “ボリス・ネムツォフ、収入183億ルーブルを突破”. RA Imidzhprom. (2009年5月13日). オリジナルの2011年11月5日時点におけるアーカイブ。 2011年2月28日閲覧。
- ^ “Немцов захотел "набить морду" главреду Life News, назвавшему его подругу "девушкой по вызову"” (Russian). newsru.com (2012年1月26日). 2015年3月8日閲覧。
- ^ “Журналисты засняли Бориса Немцова с моделью, ранее предоставлявшей эскорт-услуги” (Russian). 062.ua (2012年1月25日). 2015年3月8日閲覧。
- ^ “Russian site smears opposition leader's 'sex vacation'” (English). expatica.com (2012年1月25日). 2015年3月8日閲覧。
- ^ “IN THE SPOTLIGHT: ELUSIVE CATS AND BRAWLING PAPARAZZI” (English). The St.Petersburg Times (2012年4月4日). 2015年3月8日閲覧。
- ^ “Мразь” (Russian). b-nemtsov.livejournal.com (2012年1月25日). 2015年3月8日閲覧。
- ^ “反政権野党の参加排除 年末のロシア下院選”. 朝日新聞. (2011年7月4日). オリジナルの2011年7月3日時点におけるアーカイブ。 2011年12月28日閲覧。
- ^ “Rewriting Russian History: Did Boris Yeltsin Steal the 1996 Presidential Election?”. Time. (24 February 2012). オリジナルの22 December 2023時点におけるアーカイブ。 2024年12月29日閲覧。.
- ^ “ボリス·ネムツォフ、住宅ローンでスターリン・マンションを購入”. テレビKP. (2013年11月13日). オリジナルの2013年12月26日時点におけるアーカイブ。 2013年12月28日閲覧。
- ^ “Маркин рассказал подробности убийства Немцова” (Russian). インテルファクス通信. (2015年2月28日) 2015年2月28日閲覧。
- ^ 「殺される」ネムツォフ氏の婚約者、ロシア脱出 暗殺容疑掛けられ一時軟禁 SankeiBiz 2015年3月4日
- ^ [FT]ロシア野党指導者殺害、消された痕跡とビデオ 日本経済新聞 2015年3月6日
- ^ 露野党指導者暗殺:追悼デモ大規模に 政権は警戒 毎日新聞 2015年3月1日
- ^ “反プーチン指導者暗殺=ウクライナ反戦デモ前-モスクワ”. 時事通信. (2015年2月28日) 2015年2月28日閲覧。
- ^ “ロシア:反プーチン派の元第1副首相が射殺される”. 毎日新聞. (2015年2月28日) 2015年2月28日閲覧。
- ^ “反プーチンデモ主導、殺害予告も…ネムツォフ氏”. 日本経済新聞. (2015年2月28日). オリジナルの2015年3月1日時点におけるアーカイブ。 2015年3月1日閲覧。
- ^ ロシア内外 追悼デモ モスクワ 5万人が参加 東京新聞 2015年3月2日
- ^ モスクワ中心部で追悼デモ「7万人以上参加」 読売新聞 2015年3月2日
- ^ ネムツォフ氏追悼デモで50人逮捕 モスクワの警察当局 日本経済新聞 2015年3月2日
- ^ 通りに反プーチン指導者の名/暗殺から3年 米首都・露大使館前『毎日新聞』朝刊2018年3月1日(国際面)
- ^ “エリツィン元大統領、「四島即時返還」を提案 97年日ロ首脳会談(09/17 07:32)”. 北海道新聞. (2008年9月17日)
- ^ “Биография” (Russian). Борис Немцов. 2015年3月8日閲覧。
- ^ “Супругу Бориса Немцова мало кто видел” (Russian). kuchaknig.ru (1999年10月11日). 2015年3月8日閲覧。
- ^ “Жанна Немцова: сегодня я вне политики!” (Russian). newsland.com (2009年10月7日). 2015年3月8日閲覧。
- ^ “Boris Efimovich Nemtsov - biography, Family and personal life of Boris Nemtsov” (English). to-name.ru. 2015年3月8日閲覧。
- ^ “Boris Nemtsov to be buried in Moscow” (English). タス通信 (2013年2月28日). 2015年3月8日閲覧。
- ^ “У Немцова осталось четверо детей” (Russian). dialog.ua (2015年2月27日). 2015年3月8日閲覧。