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マアタン・アッ・サッラ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

マアタン・アッ・サッラ(Ma'tan as-Sarra)、又はマアタン・アル・サッラ(Ma'tan al-Sarra)はリビア南東部に位置する町。クフラ県に属する。

クフラから南東322キロ(200マイル)のリビア砂漠に位置する。近くのオアシスには僅かなヤシの木の質の悪い水がある。1811年サハラ交易の時期に設立された。歴史的にはトゥーブゥー族ザガワ族は少ししか訪れなかった。[1]

マアタン・アッ・サッラ

معطن السارة
オアシス
マアタン・アッ・サッラの位置(リビア内)
マアタン・アッ・サッラ
マアタン・アッ・サッラ
マアタン・アッ・サッラの位置
北緯21度41分0秒 東経21度49分52秒 / 北緯21.68333度 東経21.83111度 / 21.68333; 21.83111座標: 北緯21度41分0秒 東経21度49分52秒 / 北緯21.68333度 東経21.83111度 / 21.68333; 21.83111
リビアの旗 リビア
地方 キレナイカ
クフラ県
標高
611 m
等時帯 UTC+2

1934年にマアタン・アッ・サッラも含むサッラトライアングル地域はイタリア王国イタリア領リビア英埃領スーダンから、この価値のない砂の土地はベニート・ムッソリーニイタリア植民地帝国へ移された[1] リビアのリーダー、ムアンマル・アル=カッザーフィースーダンモハメド・アン=ヌメイリアディス・アベバ合意 (1972年)第一次スーダン内戦を終わらせたことをアラブ主義への裏切りだと感じた。[1] カッザーフィーはマアタン・アッ・サッラの基地に武器を大量備蓄し、スーダンの武装勢力のための場所としてトリポリ近郊のジュダイムマサールラスに基地を建設した。[2] 1976年七月、オアシスを去ったスーダンの野党指導者サーディク・アル=マフディーは1000人の信奉者を連れ、北ダルフールコルドファンを横切り、ハルツームを襲った。三日間の戦闘の末、アル=マフディーの軍は戦車大隊が町に打撃を与えた後敗北した。[1] また、リビアチャド・リビア紛争(1978-1987)で頻繁に使用されたマアタン・アッ・サッラ空軍基地 を設立した。基地は1987年9月の大いに成功した奇襲で話題になった、同じ月に停戦合意したチャド軍によって。

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d Burr, J. Millard and Robert O. Collins, Darfur: The Long Road to Disaster, Markus Wiener Publishers: Princeton, 2006, ISBN 1-55876-405-4, p. 111
  2. ^ Burr and Collins, 2006, p. 137