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マインツ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マイエンスから転送)
紋章 地図
基本情報
連邦州: ラインラント=プファルツ州
郡: 郡独立市
緯度経度: 北緯50度00分 東経08度16分 / 北緯50.000度 東経8.267度 / 50.000; 8.267座標: 北緯50度00分 東経08度16分 / 北緯50.000度 東経8.267度 / 50.000; 8.267
標高: 海抜 89 m
面積: 97.73 km2
人口:

217,556人(2021年12月31日現在) [1]

人口密度: 2,226 人/km2
郵便番号: 55116–55131
市外局番: 06131, 06136
ナンバープレート: MZ
自治体コード:

07 3 15 000

行政庁舎の住所: Jockel-Fuchs-Platz 1
55116 Mainz
ウェブサイト: www.mainz.de
首長: ニノ・ハーセ (Nino Haase)
州内の位置
地図
地図
復元されたローマ時代の建造物
マインツ河川港 1840年頃
第二次大戦で破壊された教会
マインツの街並み
上空から 左側がマインツ

マインツ: Mainz [maɪ̯nt͡s] ( 音声ファイル))は、ドイツ連邦共和国都市ラインラント=プファルツ州の州都。中世よりマインツ大司教の司教座聖堂の所在地であり、活版印刷の発明者ヨハネス・グーテンベルクの出身地でもある。一時フランス領であった時期には、フランス語のマイヤンス: Mayence [ma.jɑ̃s])の名で呼ばれた。ラインガウ(Rheingau)とプファルツ(Pfalz)のワインの集散地であり、当地産のスパークリング・ワイン「クプファーベルク」(Kupferberg)は特に有名である。楽譜出版で著名なショットもこの地にある。ローレライはじめ様々な伝説に彩られた風景や古城の景色を楽しめるライン下りの観光船はマインツを出港地としている。ビンゲンからコブレンツまでの「ライン渓谷中流上部」(Das Obere Mittelrheintal)は2002年ユネスコ文化遺産に登録された。赤地に白の車輪(Weiße Räder im roten Schild)を表わす市の紋章は、伝説によれば、1009年に司教に選任されたヴィレギス(Willegis)の故事に由来する[2]

地勢

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マイン川ライン川の合流点に位置し、河川交通の要衝である。そのため、いくたびか深刻な洪水による被害を受けており、近年でも1995年に大規模な洪水被害を受けた。近隣の都市としては、ヴィースバーデンダルムシュタット、そしてフランクフルト・アム・マインなどが挙げられる。

マインツは方言地図上、中部ドイツ語(Mitteldeutsch)のうちの「西中部ドイツ語」(Westmitteldeutsch)、その中の「ラインフランケン方言」(Rheinfränkisch)の地域に属する[3]

市の中心地、グーテンベルク広場(Gutenbergplatz)には、北緯50度を示す線が、敷石に示されている。

歴史

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古代

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元来ケルト人の居住した地に、紀元前1世紀後半、ローマ帝国が築いた軍事拠点であるモゴンティアークムラテン語: Mogontiacum)がその起源とされる。当初は、周辺地域に集落が点在していたと考えられるが、ゲルマン人の侵入が激化する中でそれらが集結、市壁の建設が進められた。この大規模な軍駐屯地は「都市的な特色をも帯びるように」なった[4]。帝国末期、属州ゲルマニア・スペリオルの州都となった。

多くの神殿や、古代のアルルリオンの劇場に匹敵する、 13000人以上の観客を収容できるほどの大規模な劇場もあったが[5]、現存するローマ時代の遺跡としては、いわゆる「ジュピター柱」(Jupitersäule)をはじめとする建造物をライン中流域・州立博物館(Das Mittelrheinische Landesmuseum)に、フィンテン(Finthen;地名は「泉」の意味)近傍の水源地からマインツにまで延びていた8㎞の水道の設備跡をツァールバハ(Zahlbach)の谷に見ることができる[6]。20世紀に入ってから、マインツ南駅(現在のマインツローマ劇場駅)の隣接地でローマ時代の劇場跡が発見され、発掘が続けられている。発掘済みの一部分は駅構内からも見ることができる。

中世

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5世紀末、フランク王国の支配下に入った[7]。8世紀半ば、ボニファティウスがマインツの司教に就任してから、マインツはドイツにおける信徒全体を統括する首位大司教座の役割を担った。カール大帝813年「帝国内の五つの都市で教会会議を開催し、民衆の「理解」できるような仕方で説教を行うことを聖職者に命じた」が、「マインツでは「神の言葉は俗衆が理解しうるような仕方で説教すべし」、すなわち「ラテン語説教をゲルマン語に訳すべし」と定めている[8]。カール大帝は帝国の聖俗諸侯に命じてマインツの「太鼓大橋」を完成させたが、「船を渡して不正な儲けを盗みとろうと企てた悪漢どもの陰謀により、この橋は破壊されてしまった」(ノートカー[9]神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世の死によってリーウドルフィンガー家(リウドルフィング家)(Liudolfinger;ザクセン朝、オットー朝)が途絶えると、1024年7月4日コンラートがローマ王に選ばれたが(ザリエル朝、ザーリアー朝)、その際マインツ大司教が大きな働きをし、王の戴冠式もマインツで挙行された[10]。中世を通じて、マインツ大司教はドイツ内での有力諸侯としての地位を保ち[11]1356年に成立した金印勅書の中では、7人の選帝侯のうちの1人と位置付けられている。「マインツ大司教は神聖ローマ帝国の大官房長であり、皇帝を選挙する選帝侯の首席であり、諸侯や諸都市の会議である帝国議会の議長であり、要するに帝国で皇帝に次いで位の高い存在であった」[12]。13世紀末ごろ(1283/89?)に成立した中高ドイツ語文学『ローエングリーン』では、マインツ大司教は、カール大帝の定めた七選帝侯の第一に「ドイツ管轄帝国尚書」として挙げられている[13]

マインツはしばしば帝国会議(皇帝・王主催の諸侯会議)の会場となった。ドイツ中世史の栄光の頂点に立ったフリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)(バルバロッサ)が、1184年の聖霊降臨祭に催した息子たちの騎士叙任式の祝祭、1188年断食期間中に皇帝が十字軍遠征を誓い、「イエス・キリストの宮廷会議」(≪Hoftag Jesu Christi≫)と呼ばれた[14]大帝国会議はとくに有名である[15]。1184年の祝祭[16]は、中世ドイツ宮廷文学の創始者ハインリヒ・フォン・フェルデケが『エネイーデ』(ドイツ語版「エネアス物語」)において称揚している[17]。13世紀末ごろ(1283/89?)に成立した中高ドイツ語文学『ローエングリーン』では、ブラバントのエルザのために戦う白鳥の騎士とフリードリヒ・フォン・テルラムントとの決戦がマインツで行われたようにほのめかされているが[18]、この設定もフリードリヒ・バルバロッサがマインツで催した有名な祝宴に肖ったのかもしれない。

1115年マインツの都市住民は神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世に迫って、皇帝に捕縛されていた大司教アーダルベルトを釈放させ、1119/20年には大司教がこれに感謝し、住民に対して、「外部の裁判所に呼び出されないこと、貢租を賦課されないことを保証」している[19]

「マインツでは、面積105ヘクタールを囲む広大なローマ末期の周壁環が中世全期を通じてこの都市の住民を包み込んでいる」[20]。 オットー3世の時代(983-1002)、マインツの市場はドイツ国内で最も重要な市場として「その市場慣習はボーデン湖からザクセンに至るまでの地域に知られていた」[21]。当時マインツを訪れた人の記録には、この「非常に大きな都市」に「東洋の東のはずれにのみ産出する香辛料」が見られることに驚嘆する記述がある[22]。一方、12世紀末頃、マインツ産の毛織物がヴェネツィアにまで来ている[23]。 13世紀以降、諸都市は都市同盟として自己を主張する。その目標は、平和、とりわけ商業の安全確保であり、出現しつつある領邦君主の圧迫からの保護であった。その最も有名なものが1254年ライン都市同盟(Rheinischer Städtebund)で、マインツ、ヴォルムスオッペンハイムが原動力となった。提唱者はマインツの市民で遠隔地商人であるアーノルト・ヴァルポットである[24]。翌年までに60以上の都市、諸侯などを含む都市同盟に発展した。

1244年都市マインツは、ローマ王コンラート4世と対立するマインツ大司教(エップシュタインのジークフリート3世)から大幅な都市特権を認められた[25]

14世紀初め、マインツの約120ヘクタールの市壁内の人口は20000-25000人にまで増加したと推計されている[26]

1331年には帝国自由都市(Freie Stadt des Reiches)となった[27]

マインツには「すでに9世紀から11世紀にかけて神聖ローマ帝国において最も重要なユダヤ人共同体が存在していた」[28]ユダヤ人の共同体は10世紀に急成長したが、1096年には第1回十字軍との関連で最初の暴力行為が発生した。「ユダヤ人社会の富に目がくらんで、ライン川を下流へ向かって進む熱狂した大衆が」各地でユダヤ人から略奪し、殺害したが、それはマインツでも行われた[29]。「マインツでは改宗を拒否した1000人以上のユダヤ人が十字軍兵士の犠牲となった」[30]

ベルギーのブリュージュ等に現存する旧居が世界遺産に登録されていることからも知られているベギン会は俗人と同じように生活し、戒律による共住生活を送ることのない修道士・修道女の集まりであったが、13世紀前半にはマインツ地方にもベギン会修道女がいたことが証明されている[31]

近世・それ以後

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宗教改革に際して、ドイツ語聖書の出版[32]を可能にした技術である活版印刷術は、この街の出身者ヨハネス・グーテンベルクの発明とされる。16世紀前半、マインツ大司教アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク (Albrecht von Brandenburg 1490-1545; 選帝侯 1514-1545) のもとで文化活動が興隆した[33]。アルブレヒトは大司教位就任の際、多額の金額を教皇に支払ったが、それはフッガー家からの借金によるものだった。彼はその大金の返済を贖宥状の利益によって果たそうとし、宗教改革の引き金を引くことになる[34]。因みに、大聖堂の脇にあるMarktbrunnen(「市場の噴水」)はアルブレヒト・フォン・ブランデンブルクにより、パヴィアの戦いでの神聖ローマ皇帝カール5世のフランス王フランソワ1世に対する勝利と農民戦争の鎮圧を記念して1525年に建てられたものである[35]

17世紀になると三十年戦争大同盟戦争などで荒廃した。

フランス革命が起きると、マインツは大きな影響を被る。まずフランスから大勢の亡命貴族が流れ込む。マインツ大司教は彼らを歓待し、マインツは反革命派の拠点になる。オーストリア皇帝やプロイセン国王がマインツに会して作戦を練り連合軍はフランスに進軍するがヴァルミーの会戦で敗走。勝利したフランス軍がドイツに侵攻し、1792年10月マインツを占領する。臨時政府と革命議会「ライン公会」(Der Rheinisch-deutsche Nationalkonvent)が置かれる。公会は1793年3月17日「マインツ共和国」(Republik Mainz)の樹立を宣言し、3月21日には、副議長ゲオルク・フォルスター提出の動議を採択しフランスへの合併を決議する。フランスの国民公会はこれを承認してマインツはフランス領であると宣言される。その後マインツはプロイセン・オーストリア連合軍に包囲され開城(1793年7月)となり、プロイセン領に編入される[36]

1798年から1814年にかけてのフランスによる占領の後、1816年にヘッセン・ダルムシュタット(Hessen-Darmstadt)に編入[37]

1834年7月、ドイツ連邦加盟諸国はメッテルニヒ主導の60か条からなるウィーン秘密協定を結んだ。これにより、マインツを本部とする諜報組織網が編成された[38]

1930年、連合国によるラインラント占領の終結を機に、ユダヤ系商人を両親に持つ彫刻家ベンノ・エルカーン(Benno Elkan; 1877-1960)制作による≪解放の記念碑≫の除幕式がマインツのシラー広場で催されたが、フランス軍がマインツから去り、町でユダヤ人排斥運動が盛んになると、1933年マインツ市長代理はこの記念碑を撤去させた[39]

第二次世界大戦終了後は再度フランスに占領される。この際にライン川右岸をアメリカ占領区域、ライン川左岸をフランス占領区域としたため、ライン川右岸の地区(Kastel地区など)はマインツから切り離されることになった。ラインラント=プファルツ州成立の際もこの境界を引き継いだため、当該地域は現在でも切り離されたままである。ラインラント=プファルツ州成立時、暫定的な州都はコブレンツに置かれたが、1950年5月16日に州議会と州政府がマインツに移転して州都となり、地域の中心都市に返り咲いた。

文化

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マインツ大聖堂

ロマネスク様式のマインツ大聖堂(de:Mainzer Dom)は、ケルントリーアと並んで有名な大聖堂である。シュパイアー、ヴォルムスの大聖堂ともにライン川上流地域ロマネスク様式宗教建築の最高傑作(Höhepunkt der romanischen Sakralbaukunst am Oberrhein)とされる[40]

ルネサンスの3大発明の1つである活版印刷を発明したヨハネス・グーテンベルクの生誕地であり、グーテンベルク博物館では、グーテンベルク自らが印刷したとされる世界最古の活版印刷である聖書などが展示されている。グーテンベルク工房印刷によるオリジナルの42行ラテン語聖書(1452-1455)は、47冊現存するだけだが、その一つが、アメリカ大統領が就任式の宣誓の際に手をおく聖書である。ちなみに、1477年創立[41](中断時期あり)のマインツ大学は現在ヨハネス・グーテンベルクの名を冠している(de:Johannes Gutenberg-Universität Mainz)。

マインツは、政治・社会風刺の造形などをのせた山車が注目される、大規模な行列が街を練り歩くカーニバル(謝肉祭)の都市としても有名で、広場にはその様子を表す楽しい噴水(Fastnachtsbrunnen)もある。カーニバルは、この町では「ファセナハト」(Fassenacht)あるいは「ファスナハト」(Fastnacht)と呼ばれる[42]

13世紀後半から14世紀初頭にかけて活躍した格言詩の名手、遍歴のミンネジンガー(ミンネザングの歌人)フラウエンロープことハインリヒ・フォン・マイセンは1318年にこの地に没している。カール・ツックマイヤー(de:Karl Zuckmeyer ; 1896-1977)は「第2次大戦をはさんで活躍した劇作家の中で、ブレヒトとともに最も活躍した人である」が[43]、彼はマインツから十数キロメートルほどライン川を遡った町、ナッケンハイムに生まれ、1903年から1914年までマインツで生活し、その間マインツのギミナジウムに通った[44]。作品の邦訳も少なくない20世紀の作家アンナ・ゼーガースはマインツに生まれた。

聖シュテファン教会では、シャガール作のステンドグラス(Chagallfenster)を見ることができる。

ユダヤ人コミュニティ遺跡群

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世界遺産 シュパイアーヴォルムス、マインツのユダヤ人コミュニティの遺産群[45]
ドイツ
マインツ旧ユダヤ人墓地(ドイツ語版)
英名 ShUM Sites of Speyer, Worms and Mainz
仏名 Sites SchUM de Spire, Worms et Mayence
面積 5.56 ha(緩衝地域 16.43 ha)
登録区分 文化遺産
登録基準 (2), (3), (6)
登録年 2021年
公式サイト 世界遺産センター(英語)
使用方法表示

シュパイアーヴォルムスとマインツのユダヤ人コミュニティ遺跡群は2021年に世界遺産に登録された。マインツ市内からはユーデンザントドイツ語版(マインツ旧ユダヤ人墓地)の1か所が登録されている[46]

登録基準

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この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

  • (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
  • (3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
  • (6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。

交通

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マインツの路面電車

マインツ中央駅から北方にライン川左岸線、南方にはマインツ - マンハイム線が伸びている。

市内交通はマインツ市電が5系統の路線を運行している。

マインツの東方16kmにフランクフルト空港があり便利である。

スポーツ

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教育

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ドイツの20メガ大学のひとつマインツ大学(ヨハネス・グーテンベルク大学マインツ)および著名な諸研究所を有するマインツ市は、 »Stadt der Wissenschft 2011« 「学術都市2011」に選ばれた[47]

メディア

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ドイツ第二の公共放送ネットワークである、第2ドイツテレビ(ZDF)はマインツに本部を置いている。またARD加盟の南西ドイツ放送(SWR)もマインツに放送局を置いている[48]

姉妹都市

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マインツは以下の都市と姉妹都市である:

また、‘友好都市’ は:

脚注

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  1. ^ Statistisches Landesamt Rheinland-Pfalz – Bevölkerungsstand 2021, Kreise, Gemeinden, Verbandsgemeinden
  2. ^ グリム兄弟編『ドイツ伝説集』伝説474番「マインツの紋章の車輪」(Das Rad im Mainzer Wappen)によると、身分の低い車大工(Wagnersmann)の息子が司教に選ばれたのを不快に思った聖堂参事会員ら高位聖職者は、新司教の館の壁と扉に車輪の絵を描いて侮辱した。司教はそのことを知ると、全ての部屋に赤地に白の車輪を描かせたという。- Brüder Grimm: Deutsche Sagen. Bd. 2. Herausgegeben von Hans-Jörg Uther. München: Diederichs (ISBN 3-424-01177-0), 1993, S. 424.- もっとも、1340年ごろ成立の年代記絵本 Kaiser Heinrichs Romfahrt. Die Bilderchronik von Kaiser Heinrich VII. und Kurfürst Balduin von Luxemburg 1308-1313. Mit einer Einleitung und Erläuterungen herausgegeben von Franz-Josef Heyen. Deutscher Taschenbuch Verlag 1978 (ISBN 3-423-01358-3), S. 57, Abbildung 3b und S. 63, Abbildung 6a; Verzeichnis der in den Miniaturen dargestellten Wappen Nr.84 (S. 141) によれば、14世紀マインツ大司教の紋章は „In Rot ein silbernes Rad“すなわち「赤地に(1個の)銀の車輪」として描かれている。
  3. ^ 国松孝二(編集代表)『小学館 独和大辞典〔第2版〕』小学館 1998. 2831頁。
  4. ^ エーディト・エネン著 佐々木克巳訳 『ヨーロッパの中世都市』岩波書店、1987年、(ISBN 4-00-002373-X)、13頁。
  5. ^ Rolf Dörrlam: Theater in Mainz – von den Römern bis zur Gegenwart. Mainz: Verlag Dr.Hanns Krach 1983 (ISBN 3-87439-095-0), S. 9-14.
  6. ^ エーディト・エネン著 佐々木克巳訳 『ヨーロッパの中世都市』岩波書店、1987年、(ISBN 4-00-002373-X)、12-13頁。 - Karl Schramm: Mainz. Gegenwart und Geschichte. Ein Durchgang durch die zweitausendjährige Stadt. 2. Aufl. Mainz: Verlag Dr.Hanns Krach 1965, S. 11-12. - Cord Meckseper: Kleine Kunstgeschichte der deutschen Stadt im Mittelalter. Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 1982 (ISBN 3-534-08579-5), S. 16.
  7. ^ マインツの西 15kmに位置する町、インゲルハイム(Ingelheim)には、カロリング朝の王宮の跡がある。Baedeker: Deutschland. Ostfildern: Karl Baedeker 8.Aufl. 2005 (ISBN 3-8297-1079-8), S. 739. - Michael Imhof / Stephan Kemperdick: Der Rhein. Kunst und Kultur von der Quelle bis zur Mündung. Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 2004 (ISBN 3-534-17215-9). S. 11に写真。- Cord Meckseper: Kleine Kunstgeschichte der deutschen Stadt im Mittelalter. Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 1982 (ISBN 3-534-08579-5), S. 37-38.
  8. ^ 大黒俊二(おおぐろ しゅんじ)『声と文字』(「ヨーロッパの中世」6)岩波書店 2010(ISBN 978-4-00-026328-3)、68-69頁。
  9. ^ エインハルドゥス(アインハルト)/ノトケルス『カロルス大帝伝』國原吉之助訳、筑摩書房、1988年3月。ISBN 4-480-83591-1。100頁。橋の消失について、ノートカーはこのように記すが、アインハルトは、「偶然の火事で3時間燃え続け」た、と記し、カールの死の前兆と解釈している。同書26-27,42頁。
  10. ^ Lexikon des Mittelalters. Bd. V. München/Zürich: Artemis & Winkler 1991 (ISBN 3-8508-8905-X), Sp. 1338.
  11. ^ たとえば、大司教ペーター・フォン・アスペルト(Peter von Aspelt)は、ミンネゼンガー フラウエンロープの晩年の支援者であり、ライン河畔のハイムブルク城(Heimburg bei Niederheimbach)の修復も行っているが、1308年ハインリヒ7世のローマ王への選出にさいして大きな働きをした。Gertrude Cepl-Kaufman / Antje Johanning: Mythos Rhein. Zur Kulturgeschichte eines Stromes. Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 2003 (ISBN 3-534-15202-6), S. 22. - Kaiser Heinrichs Romfahrt. Die Bilderchronik von Kaiser Heinrich VII. und Kurfürst Balduin von Luxemburg 1308-1313. Mit einer Einleitung und Erläuterungen herausgegeben von Franz-Josef Heyen. Deutscher Taschenbuch Verlag 1978 (ISBN 3-423-01358-3), S. 17-18.
  12. ^ 坂井栄八郎『ドイツ歴史の旅 増補』朝日新聞社 1997(12刷)(朝日選書 312)(ISBN 4-02-259412-8)40頁。 - Gerhard Köbler: Historisches Lexikon der deutschen Länder, 6. Aufl. München: Beck 1988 = Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 1999, S. 376.
  13. ^ 小栗友一訳「ローエングリーン(中世ドイツ叙事詩)」(Thomas Cramer編:“Lohengrin”の邦訳)、(5)名古屋大学言語文化部『言語文化論集』XVII, 1 (1995,10), 197-198詩節:pp. 50-51.
  14. ^ Horst Fuhrmann : Überall ist Mittelalter. Von der Gegenwart einer vergangenen Zeit. München(C.H.Beck) 1996 (ISBN 3 406 40518 5), S. 96.
  15. ^ Josef Fleckenstein : Friedrich Barbarossa und das Rittertum. Zur Bedeutung der großen Mainzer Hoftage von 1184 und 1188. In: Festschrift für Hermann Heimpel zum 70. Geburtstag am 19. 9. 1971, B. 2, Vandenhoeck & Ruprecht, Göttingen 1972, S. 1023-1041. Wiederdruck in: Arno Borst (Hrsg.), Das Rittertum im Mittelalter, Wissenschaftliche Buchgesellschaft, Darmstadt 1976, S. 392-418.
  16. ^ Joachim Bumke: Höfische Kultur. Literatur und Gesellschaft im hohen Mittelalter. Bd.1. München: Deutscher Taschenbuch Verlag 1990 (ISBN 3-423-04442-X), S. 276-281.
  17. ^ Heinrich von Veldeke : Eneasroman. Mittelhochdeutsch/Neuhochdeutsch. Nach dem Text von Ludwig Ettmüller ins Neuhochdeutsche übersetzt, mit einem Stellenkommentar und einem Nachwort von Dieter Kartschoke. Stuttgart: Reclam 1986 (Universal-Bibliothek Nr. 8303[10])(ISBN 3-15-008303-6), S. 738-741.
  18. ^ 小栗友一訳「ローエングリーン(中世ドイツ叙事詩)」(Thomas Cramer編:“Lohengrin”の邦訳)、(5)名古屋大学言語文化部『言語文化論集』XVII, 1 (1995,10), 190詩節:pp. 47-48.
  19. ^ エーディト・エネン著 佐々木克巳訳 『ヨーロッパの中世都市』岩波書店、1987年、(ISBN 4-00-002373-X)、140頁。
  20. ^ エーディト・エネン著 佐々木克巳訳 『ヨーロッパの中世都市』岩波書店、1987年、(ISBN 4-00-002373-X)、39頁。
  21. ^ エーディト・エネン著 佐々木克巳訳 『ヨーロッパの中世都市』岩波書店、1987年、(ISBN 4-00-002373-X)、87頁。
  22. ^ エーディト・エネン著 佐々木克巳訳 『ヨーロッパの中世都市』岩波書店、1987年、(ISBN 4-00-002373-X)、90頁。- de:Der Spiegel Geschichte, Januar 2015: Die Menschen im Mittelalter. Herrscher, Ketzer, Minnesänger. Hamburg: SPIEGEL-Verlag 2015, S. 63.
  23. ^ エーディト・エネン著 佐々木克巳訳 『ヨーロッパの中世都市』岩波書店、1987年、(ISBN 4-00-002373-X)、206頁。
  24. ^ エーディト・エネン著 佐々木克巳訳 『ヨーロッパの中世都市』岩波書店、1987年、(ISBN 4-00-002373-X)、213頁。
  25. ^ Lexikon des Mittelalters. Bd. VII. München: LexMA 1995 (ISBN 3-7608-8907-7), Sp. 1867 (Beitrag von A. Gerlich).
  26. ^ Lexikon des Mittelalters. Bd. VI. München/Zürich: Artemis & Winkler 1993 (ISBN 3-7608-8906-9), Sp. 133.
  27. ^ Gerhard Köbler: Historisches Lexikon der deutschen Länder, 6. Aufl. München: Beck 1988 = Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 1999, S. 376.
  28. ^ 河原温_(歴史学者) 『都市の創造力』(「ヨーロッパの中世」2)岩波書店 2009(ISBN 978-4-00-026324-5)、221頁。
  29. ^ エーディト・エネン著 佐々木克巳訳 『ヨーロッパの中世都市』岩波書店、1987年、(ISBN 4-00-002373-X)、295頁。- 河原温_(歴史学者) 『都市の創造力』(「ヨーロッパの中世」2)岩波書店 2009(ISBN 978-4-00-026324-5)、222頁。- Lexikon des Mittelalters. Bd. VI. München/Zürich: Artemis & Winkler 1993 (ISBN 3-7608-8906-9), Sp. 132.
  30. ^ 関哲行『旅する人びと』(「ヨーロッパの中世」4)岩波書店 2009(ISBN 978-4-00-026326-9)、255頁。
  31. ^ エーディト・エネン著 佐々木克巳訳 『ヨーロッパの中世都市』岩波書店、1987年、(ISBN 4-00-002373-X)、299-300頁。
  32. ^ ルタードイツ語聖書(Die gantze Heilige Schrifft Deudsch)いわゆるルター聖書、ルター在世中の最終版(Letzte zu Luthers Lebzeiten erschienene Ausgabe)は、1545年ヴィッテンベルク(Wittenberg)のハンス・ルフト(Hans Lufft)によって印刷された。- Faksimileausgabe Rogner & Bernhard, München 1972 ; Sonderausgabe für die Mitglieder der Wissenschaftliche Buchgesellschaft, Darmstadt.参照。
  33. ^ 例えば、『イーゼンハイム祭壇画』の制作で有名なマティアス・グリューネヴァルト は、1521年から1523年まで大司教のためにタウバービショフスハイム(Tauberbischofsheim)の祭壇等の制作に携わっている。Lottlisa Behling: Matthias Grünewald. Königstein im Taunus, Germany: Karl Robert Langewiesche Nachfolger Hans Köster, Königstein im Taunus 1969. S. 5による。
  34. ^ 坂井栄八郎『ドイツ歴史の旅 増補』朝日新聞社 1997(12刷)(朝日選書 312)(ISBN 4-02-259412-8)135-136頁。
  35. ^ Karl Schramm: Mainz. Gegenwart und Geschichte. Ein Durchgang durch die zweitausendjährige Stadt. 2. Aufl. Mainz: Verlag Dr.Hanns Krach 1965, S. 55-56.
  36. ^ 坂井栄八郎『ドイツ歴史の旅 増補』朝日新聞社 1997(12刷)(朝日選書 312)(ISBN 4-02-259412-8)43-46頁。- Gertrude Cepl-Kaufman / Antje Johanning: Mythos Rhein. Zur Kulturgeschichte eines Stromes. Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 2003 (ISBN 3-534-15202-6), S. 55-65. - Gerhard Köbler: Historisches Lexikon der deutschen Länder, 6. Aufl. München: Beck 1988 = Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 1999, S. 377.
  37. ^ Dieter Berger : Duden, geographische Namen in Deutschland. Mannheim u.a.: Dudenverlag 1993 (ISBN 3-411-06251-7) , S. 177.
  38. ^ すでに1819年に、カールスバート決議により、ドイツの大学の教授・学生を監視する機関 de:Mainzer Zentraluntersuchungskommission (Zentralkommission zur Untersuchung hochverräterischer Umtriebe)(マインツ中央調査委員会)がマインツに設立されている。
  39. ^ エルカーンはドイツサッカーの名門 FCバイエルン の創立定款に署名した17人の一人でもある。ディートリヒ・シュルツェ=マルメリング『FCバイエルンの軌跡』(中村修訳)白水社、2021年11月(ISBN 978-4-560-09872-1)、62-63頁。
  40. ^ Baedeker: Deutschland. S. 736.
  41. ^ Karl Schramm: Mainz. Gegenwart und Geschichte. Ein Durchgang durch die zweitausendjährige Stadt. 2. Aufl. Mainz: Verlag Dr.Hanns Krach 1965, S. 55.
  42. ^ 標準ドイツ語では「カルネヴァル」(Karneval/Carneval)、ミュンヘンなどの南ドイツでは「ファッシング」 (Fasching)と呼ばれる。
  43. ^ 岡田朝雄・リンケ珠子『ドイツ文学案内』朝日出版社 2000 (ISBN 4-255-00040-9)、118頁。
  44. ^ Autoren in Wort und Bild. Herausgegeben vom Bertelsmann Lesering Lektorat. Gütersloh: Bertelsmann.O.J., S. 283.
  45. ^ 世界遺産 - ドイツ連邦共和国”. TBSテレビ. 2023年5月18日閲覧。
  46. ^ ShUM Sites of Speyer, Worms and Mainz” (英語). UNESCO World Heritage Centre. 2023年5月18日閲覧。
  47. ^ Deutscher Akademischer Austauschdienst e.V. (Hrsg.) : DAAD Letter. Das Magazin für DAAD-Alumni, Nr.2 August 2011, 31.Jg., S. 20-21.
  48. ^ Standorte(SWR公式サイト)

参考文献

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  • Karl Schramm: Mainz. Gegenwart und Geschichte. Ein Durchgang durch die zweitausendjährige Stadt. 2. Aufl. Mainz: Verlag Dr.Hanns Krach 1965
  • Lexikon des Mittelalters. Bd. VI. München/Zürich: Artemis & Winkler 1993 (ISBN 3-7608-8906-9), Sp. 131-142 (zu 'Mainz').
  • Lexikon des Mittelalters. Bd. VI. München/Zürich: Artemis & Winkler 1993 (ISBN 3-7608-8906-9), Sp. 142-143 (zu 'Mainz, Hoftage').
  • Gerhard Köbler: Historisches Lexikon der deutschen Länder, 6. Aufl. München: Beck 1988 = Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 1999, S. 375-377.
  • Baedeker: Deutschland. 8.Aufl. 2005 (ISBN 3-8297-1079-8), S. 734-739.
  • Mainz. Eine Auswahl Mainzer Ansichten von den frühesten Zeiten bis zur Neizeit, in 64 Federzeichnungen nebst dazugehörigem Text. Georg Ignaz Höler’s Verlag, Mainz, O. J.
  • フリードリヒ・フォン・ラウマー『騎士の時代 ドイツ中世の王家の興亡』(柳井尚子訳)法政大学出版局 1992 (叢書・ウニベルシタス 386)(ISBN 4-588-00386-0)
  • エーディト・エネン著 佐々木克巳訳 『ヨーロッパの中世都市』岩波書店、1987年、(ISBN 4-00-002373-X) (原著 de:Edith Ennen: Die europäische Stadt des Mittelalters. Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht 1972)
  • ゲオルク・フォルスター著・船越克己訳『ニーダーラインの光景』大阪公立大学共同出版会 2012 (ISBN 978-4-901409-86-5)
  • 坂井栄八郎『ドイツ歴史の旅 増補』朝日新聞社 1997(12刷)(朝日選書 312)(ISBN 4-02-259412-8)、5「マインツとゲオルク・フォルスターの悲劇」(40-46頁)。

関連項目

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外部リンク

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