マイケル・パオ
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名前 | ||||||
ラテン文字 | Michael Sinpin Pao | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | アメリカ合衆国 | |||||
生年月日 | 1973年1月27日(51歳) | |||||
出身地 | アメリカ合衆国 | |||||
身長 | 173cm | |||||
体重 | 70kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF、FW | |||||
背番号 | 7 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1995-1998 | アルビレオ新潟FC/アルビレックス新潟 | 41 | (14) | |||
1998 - 1999 | ローリー・エクスプレス | ? | (?) | |||
1999 | コロンバス・クルー | ? | (?) | |||
1999 - 2000 | Persijatim | ? | (?) | |||
2001 - | Persikabo Kabupaten Bogor | ? | (2) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
マイケル・シンピン・パオ(英語: Michael Sinpin Pao, 1973年1月27日 - )は、アメリカ合衆国出身のサッカー選手。ポジションはフォワード、ミッドフィルダー。
中国系アメリカ人である。サウスカロライナ州リバーサイド高校、テネシー州ヴァンダービルト大学を卒業[1]。 1995年に当時北信越フットボールリーグだったアルビレックス新潟(旧アルビレオ新潟FC)に入団した。 JFL昇格後は主にフォワードとしてプレー、JFLのチーム初得点は彼のヘディングシュートであった[2]。
1998年に新潟退団後は帰国している。
その後、1999年にメジャーリーグサッカーのコロンバス・クルーからリーガ・インドネシア・プレミア・ディヴィジョン(インドネシア・スーパーリーグ発足前のため1部)のPersijatim(スリウィジャヤFCの前身の一つ)に移籍、同年は第2ステージまで進出、得点も挙げたがチームは敗退している[3][4]。その後、同リーグのPersikabo Kabupaten Bogor(ペルシカボ1973の前身の一つ)に移籍してプレーした[3]。Persikabo Kabupaten Bogorは2001年の結果2部に降格となったが、その年2得点をあげている[5]。
個人成績
[編集]国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1995 | 新潟 | 7 | 北信越 | - | |||||||
1996 | 9 | 5 | - | 1 | 1 | ||||||
1997 | 5 | 2 | - | 2 | 2 | ||||||
1998 | 旧JFL | 27 | 7 | - | 3 | 1 |
脚注
[編集]- ^ “アルビレックス新潟選手名簿(第21回全国地域リーグ決勝大会)”. 2010年7月4日閲覧。
- ^ アルビレックス新潟11年史編集委員会『アルビレックス新潟11年史』アルビレックス新潟、2007年。
- ^ a b “7 Pemain Asing di Liga Indonesia dari Negara Anggota CONCACAF”. Skor (2023年4月20日). 2024年10月11日閲覧。
- ^ “Persija, Persikota and Pupuk Kaltim advance to semis”. ジャカルタ・ポスト (2000年1月14日). 2024年10月11日閲覧。
- ^ “Indonesia 2001”. Rec.Sport.Soccer Statistics Foundation. 2024年10月11日閲覧。