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マダウィ・アル=ラシード

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マダウィ・アル・ラシード
مضاوي بنت طلال بن محمد الرشيد
生誕 1962年10月(62歳)
フランスの旗 フランス パリ
市民権 イギリスの旗 イギリス
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マダウィ・アル=ラシード(Madawi al-Rasheed、アラビア語: مضاوي الرشيد[1](マダーウィー・アッ=ラシード)、1962年10月 - )は、サウジアラビア出身のイギリス社会人類学者である。

20世紀初頭にサウード家に征服されたハイール首長国の最後の王子、ムハンマド・ビン・タラール・アッ=ラシード英語版の孫に当たる。キングス・カレッジ・ロンドンの神学・宗教学講座やロンドン・スクール・オブ・エコノミクス中東センターの客員教授を務めている。アメリカ、ヨーロッパ、中東で講演を行い、アラビア半島アラブ人移民グローバリゼーションジェンダー、宗教的トランスナショナリズム英語版などをテーマにした著書や論文を学術誌に発表している。2016年現在、シンガポール国立大学中東研究所の客員研究教授を務める。

生涯

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アル=ラシードは、サウジアラビア人の父とレバノン人の母の間にフランスパリで生まれた。父はラシード王朝英語版の末裔である。生後まもなく一家はサウジアラビアに移り、アル=ラシードはそこで育った[2]

1975年、サウジアラビアのファイサル国王が、甥のファイサル・ビン・ムサーイド王子によって暗殺された。ファイサル・ビン・ムサーイドの母親はアル=ラシードの父の妹であり、サウジアラビア政府はラシード家が暗殺の背後にいると非難した。同年、一家はレバノン亡命し、アル=ラシードは1981年にレバノンで学士号を取得した。その後、ベイルート・アメリカン大学で人類学と社会学の研究を始めた[2]。1982年にイスラエルがレバノンに侵攻英語版したことから、アル=ラシードはイギリスに2度目の亡命をした。そして、サルフォード大学英語版、後にケンブリッジ大学で学び、アーネスト・ゲルナーの指導のもとでPh.D.を取得した[2]

2005年、アルジャジーラの番組に出演してサウジアラビア政府を批判したことで、当時リヤド州知事で、後にサウジアラビア国王となったサルマンがアル=ラシードの父親に電話をかけ、テレビ出演の罰としてサウジアラビア国籍を剥奪したと告げた[2]

著作物

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著作

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選集

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  • 2004 Al-Rasheed, M. & R Vitalis (eds.) Counter-Narratives: History, Contemporary Society and Politics in Saudi Arabia and Yemen, New York, Palgrave
  • 2005 Al-Rasheed, M. (ed.) Transnational Connections and the Arab Gulf, London: Routledge.
  • 2008 Al-Rasheed, M. (ed.) Kingdom without Borders: Saudi Political, Religious and Media Expansion, London: Hurst and Co.
  • 2009 Al-Rasheed, M. & M. Shterin. (eds.) Dying for Faith: Religiously Motivated Violence in the Contemporary World, London: I.B. Tauris.
  • 2012 Al-Rasheed, M. Kersten, C. and Shterin, M. (eds,) Demystifying the Caliphate: Historical Memory and Contemporary Contexts, London: Hurst and Co.

脚注

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  1. ^ al-Rasheed, Madawi (2012年9月10日). “موقع الدكتورة مضاوي الرشيد” (Arabic). 2012年9月16日時点のオリジナルよりアーカイブ2012年9月16日閲覧。
  2. ^ a b c d De‐exoticizing Saudi Arabia with Madawi Al‐Rasheed, 3 December 2019, Maha Abdelrahman, Archive

外部リンク

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