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マティルダ・フィッツロイ (ブルターニュ公妃)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マティルダ・フィッツロイ
Matilda Fitzroy
続柄 イングランド王庶子

称号 ブルターニュ公妃
出生 12世紀
死去 1128年
配偶者 ブルターニュ公コナン3世
子女 ベルト
オエル3世
コンスタンス
家名 ノルマン家
父親 イングランド王ヘンリー1世
母親 不明
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モード英語Maud)もしくはマティルダ・フィッツロイ英語Matilda Fitzroy)、フランス語名はマティルド・ダングレーテルフランス語Mathilde d'Angleterre)は、ブルターニュ公コナン3世との結婚により、ブルターニュ公妃となった人物。

ブルターニュ公妃

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マティルダはイングランド王ヘンリー1世碩学王と名前不明の愛人の1人との間に生まれた庶出の娘である。

1113年3月、父ヘンリー1世とフランス王ルイ6世との間で行われたオルメトー=フェレでの会談の際に、ブルターニュ公アラン・フェルジェントの息子で相続人であるコナンと婚約した。

1118年に結婚し[1]、以下3子の母親となったとされる[2]

コナン3世はそれまでオエルを実子嫡男とみなしていたが、死の間際に非嫡出子とし、オエルの継承権を剥奪した。

1116年から17年にかけて、コナン3世の法廷において、サン=マルタン・ド・ヴェルトゥ修道院の権利維持とパレ城の者たちに対する裁判が行われ、オエルは父とともに「オエル伯子の署名(signum Hoelli filii comitis)」と称される行動を取った。

コナン3世は、オエルが妻の庶子であることを宣言し、長女ベルトと娘婿リッチモンド伯アランの息子であるコナンを相続人に代えた。

この決定は、いまだに謎となっている。

ステファン・モランは、ピエール・ル・ボーが提唱し、ロベール・ド・ソリニー[3]など最もよく知られた現代の年代記者が無視したオエルの擬制は、ブルターニュ公家の男系子孫で、コルヌアイユ家の「簒奪」を止めようとし、コナン3世に取り入った娘婿アラン黒伯の陰謀の結果を、歴史家たちが後付けで説明しているものだと考えている。

1148年から1154年にかけて、オエル3世が実姉ブルターニュ女公ベルトの2人目の夫で幼かった甥コナン4世の家庭教師であったポルオエ家のウード2世と対立し、ナントから追放されたことがこの内乱の原因である。

マティルダの死亡日は不明である。

注釈と参考文献

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  1. ^ 10月9日までに、マティルダがコナンの妻として証書に干渉していることが判明している。
  2. ^ Joëlle Quaghebeur et Bernard Merdrignac (sous la direction de) Bretons et Normands au Moyen Âge. Rivalités, malentendus convergences Presses Universitaires de Rennes; Rennes (2008) ISBN 9782753505636 p. 154.
  3. ^ qui dans sa Chronique le nomme simplement « Hoello comite Britanniæ » AD 1156 p. 298.

書誌情報

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  • Joëlle Quaghebeur et Bernard Merdrignac (sous la direction de) Breton et Normands au Moyen Âge. Rivalités, malentendus convergences Presses Universitaires de Rennes; Rennes (2008) ISBN 9782753505636 « Havoise, Constance et Mathilde, princesses de Normandie et duchesses de Bretagne » p. 145-163.
  • Bryan, Elizabeth J. (2016). “Matthew Parker and the Middle English Prose Brut” (英語). The Prose Brut and Other Late Medieval Chronicles (York Medieval Press ed.) .