マティルデ・フォン・シュポンハイム
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マティルデ・フォン・シュポンハイム Mathilde von Sponheim | |
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フランス王ルイ6世に懇願するマティルデ(サン=ドニ年代記より、14世紀) | |
出生 |
1108年 |
死去 |
1160/1年12月13日 |
埋葬 | フランス王国、ラ・ポムレ修道院 |
配偶者 | ブロワ伯ティボー4世 |
子女 | 本文参照 |
家名 | シュポンハイム家 |
父親 | ケルンテン公エンゲルベルト |
母親 | ウタ・フォン・パッサウ |
マティルデ・フォン・シュポンハイム(ドイツ語:Mathilde von Sponheim, 1108年 - 1160/1年12月13日)またはマティルデ・フォン・ケルンテン(Mathilde von Kärnten)は、ケルンテン公エンゲルベルトとウタ・フォン・パッサウの娘[1]。
1123年にブロワ伯ティボー4世(後にシャンパーニュ伯)と結婚し[2]、以下の子女をもうけた。
- アンリ1世(1127年 - 1181年)[2] - シャンパーニュ伯
- マリー(1128年 - 1190年代) - ブルゴーニュ公ウード2世妃[3]
- ティボー5世(1130年 - 1191年)[2] - ブロワ伯
- イザベル(1130年 - 1180年頃) - プッリャ公ルッジェーロ3世妃[4]、のちモンミライユ領主ギヨーム4世・ド・グエと結婚
- エティエンヌ1世(1133年 - 1191年)[2] - サンセール伯
- ギヨーム(1135年 - 1202年)[2] - 白き手のギヨームと呼ばれ、ランス大司教、枢機卿となった。
- マティルド(1184年没) - ペルシュ伯ロトルー4世妃[5]
- アニェス(1207年没) - バル伯ルノー2世妃[3]
- アデル(1140年 - 1206年)[2] - フランス王ルイ7世妃
- マルグリット - フォントヴロー修道院の修道女
脚注
[編集]- ^ Chibnall 2002, pp. 42–43.
- ^ a b c d e f Cline 2007, pp. 501–502.
- ^ a b Fassler 2010, p. 457.
- ^ Evergates 2016, p. x.
- ^ Baldwin 2002, p. 46.
参考文献
[編集]- Baldwin, John W. (2002). Aristocratic Life in Medieval France. Johns Hopkins University
- Chibnall, Marjorie, ed (2002). The Ecclesiastical History of Orderic Vitalis. VI Book XI. Clarendon Press Texts
- Cline, Ruth Harwood (2007). “Abbot Hugh: An Overlooked Brother of Henry I, Count of Champagne”. The Catholic Historical Review (Catholic University of America Press) 93, No. 3 July.
- Evergates, Theodore (2016). Henry the Liberal: Count of Champagne, 1127-1181. University of Pennsylvania Press
- Fassler, Margot Elsbeth (2010). The Virgin of Chartres: Making History Through Liturgy and the Arts. Yale University Press