マリア観音
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マリア観音(マリアかんのん)とは、「1614年(慶長19年)に江戸幕府による禁教令が出されたのち、1873年(明治6年 )にキリシタン禁制の高札が撤去されるまで、およそ250年にわたって」[1]、主に江戸時代の禁教令によって弾圧を受けた隠れキリシタン(キリスト教徒)によって、カトリック信徒の信心の対象である聖母マリアに擬せられた観音菩薩像。キリシタンたちは表面上仏教徒であるように装い、中国または国内で作られた白磁製などの観音像を「ハンタマルヤ」と呼び、密かにこれを信仰の拠りどころとした。これらの像は一般的に「マリア観音」と呼ばれていた[1]。
多くは中国製の青磁あるいは白磁の慈母観音像[2]であった。慈母観音とは中国発祥の観音菩薩像で、稚児を抱き慈愛に満ちた造形表現となっており、肥前(長崎県)の浦上(現・長崎市浦上)や外海、五島などの潜伏キリシタンは、これに聖母マリアを脳内補完してその像とした。その形状は地域によってさまざまであり、中には菩薩像の胸や台座の部分に十字架を彫刻したり、国内で窯焼きされたものもあったと考えられている。イクトゥスとかけて魚を持たせた像もあった。これらの像は、キリシタンとして信仰の灯を絶やさぬよう神(デウス)や聖母マリアへ祈りを捧げるのに使われたという。また潜伏キリシタンがいた地方でも、平戸などマリア観音が用いられなかった地域もある。1873年(明治6年)に禁教令が解かれるまで、この状態は続いた。
芥川龍之介も蔵していた(芥川龍之介「わが家の古玩」)。
参考文献
[編集]- 宮川由衣 2020「サンクタ・マリアとしての白磁製観音像――潜伏キリシタン伝来の「マリア観音」をめぐって」『西南学院大学博物館研究紀要』 (8), 29-39, 西南学院大学博物館