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マリー・アメリー・ド・ブルボン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マリー・アメリー・ド・ブルボン=シシレ
Marie-Amélie de Bourbon-Siciles
フランス王妃
マリー・アメリーの肖像(ヴィンターハルター画)
在位 1830年8月9日 - 1848年2月24日

全名 Marie-Amélie de Bourbon-Siciles
マリー・アメリー・テレーズ・ド・ブルボン=シシレ
Maria Amalia di Borbone-Due Sicilie
マリーア・アマーリア・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ
出生 1782年4月26日
ナポリ王国の旗 ナポリ王国
カンパニア
カゼルタ宮殿
死去 (1866-03-24) 1866年3月24日(83歳没)
イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランド
サリー
クレアモント・ハウス
埋葬 1876年6月9日
フランスの旗 フランス共和国
ドルー
ドルー王室礼拝堂
結婚 1809年11月25日
パレルモ
配偶者 ルイ・フィリップ
子女 一覧参照
家名 ブルボン=シシレ家
父親 フェルディナント1世
母親 マリア・カロリーナ・ダズブルゴ
サイン
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マリー・アメリー王妃、エルサン画、1830年

マリー・アメリー・テレーズ・ド・ブルボン=シシレMarie-Amélie de Bourbon-Siciles, 1782年4月26日 - 1866年3月24日)は、フランス王ルイ・フィリップの王妃。イタリア語名はマリーア・アマーリア・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエMaria Amalia di Borbone-Due Sicilie)。

初代両シチリア王フェルディナント1世の娘。スペイン王カルロス3世神聖ローマ皇帝フランツ1世マリア・テレジアの孫。ベルギー王妃ルイーズ=マリーの母、ベルギー王レオポルド2世メキシコ皇后シャルロットの兄妹、ヴュルテンベルク家始祖フィリップブルガリア王フェルディナント、スペイン王妃マリー・ド・グラースの祖母。マリー・アントワネットは母方の叔母に当たる。

経歴

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のちの両シチリア王フェルディナント1世(当時はナポリ王フェルディナンド4世およびシチリア王フェルディナンド3世)と王妃マリア・カロリーナの娘としてカンパニアカゼルタで生まれた。

マリー・アメリーは家族から「ラ・サンタ」(La Santa)と呼ばれ、信仰篤く尊敬される人間となるよう教育された。1798年にナポリで反乱が起こり、王家はパレルモへ逃れた。さらに1800年から1802年の間、マリーは母とオーストリア宮廷で過ごした。1806年に再び王家はシチリアの君主に返り咲き、一家はパレルモへ戻った。亡命していたフランスのオルレアン公ルイ・フィリップと出会ったのはその時で、2人は1809年11月にパレルモで結婚した。

1814年にオルレアン公夫妻はフランスへ帰り、パレ・ロワイヤルに落ち着いたが、ナポレオン・ボナパルト百日天下で再び亡命を余儀なくされた。マリー・アメリーは4人の子供たちとイギリスへ逃れ、ロンドンのオルレアン・ハウスで2年間過ごした。1817年にフランスへ戻り、1828年までヌイイで暮らしたが、この時期が彼女の人生で最も幸福なものだったと言える。マリー・アメリーは自由思想の持ち主である夫と違って極端な絶対王政主義者で、伝統が夫に曲げられてしまうのではと疑っていた。彼女は政治に介入しなかったわけではなかったが、おおむね子供たちの教育と世話に夢中になっていた。1830年の七月革命の結果、オルレアン公が王位に就き、マリー・アメリーはフランス王妃となった。

1848年の二月革命により、王家は再びイギリスへ亡命した。マリー・アメリーはサリーのクレアモントに居をかまえ、慈善活動と敬虔な行いで残りの人生を過ごした。

子供

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マリー・アメリー・ド・ブルボン

1782年4月26日 - 1866年3月24日

フランスの君主
空位
最後の在位者
マリー・ルイーズ・ドートリッシュ
フランス皇后として
フランス王妃英語版
1830年8月9日 – 1848年2月24日
空位
次代の在位者
ウジェニー・ド・モンティジョ
フランス皇后として