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アニェス・ド・メラニー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アニェス・ド・メラニー
Agnès de Méranie
フランス王妃
在位 1196年6月1日 - 1201年7月19日

全名 アニェス=マリー・ダンデスク=メラニー
Agnès-Marie d'Andechs-Méranie
出生 1180年
死去 1201年7月20日
フランス王国ポワシー
埋葬 フランス王国、サン=コランタン王立修道院
結婚 1196年6月1日
配偶者 フランス王フィリップ2世
子女 マリー
フィリップ・ユルプル
ジャン=トリスタン
家名 アンデクス家
父親 メラーン公ベルトルト4世
母親 アグネス・フォン・ロホリッツ
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アニェス・ド・メラニーフランス語:Agnès de Méranie)またはアニェス・ダンデクス(フランス語:Agnès d'Andechs, 1180年頃 - 1201年7月20日)、ドイツ語名アグネス=マリア・フォン・アンデクス=メラニーンドイツ語:Agnes-Maria von Andechs-Meranien)は、フランスフィリップ2世の3番目の王妃。父はメラーン公ベルトルト4世、母はアグネス・フォン・ロホリッツ。姉にシレジア守護聖人として知られるヤドヴィガ(ヘートヴィヒ)がいる。

生涯

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フィリップ2世は1190年に最初の王妃イザベル・ド・エノーと死別した後、1193年デンマーク王女インゲボルグと再婚したものの、彼女が気に入らず、離婚を宣言して1196年にアニェスと結婚した。アニェスはフィリップ2世が心を打たれる程の「並外れた」美女であったとされる。

しかし、インゲボルグは離婚を認めず、ローマ教皇ケレスティヌス3世に訴えた。結果、この結婚は無効とされたが、フィリップ2世はそれを認めず、なおもアニェスを王妃とした。

その後、イングランドジョンとの対抗上、教皇の支持を求めることになり、やむなく1201年に表面上アニェスと別れた[1]。アニェスは自分に飽きたせいで王に捨てられたと思い込み、悲嘆により病に罹り、同年のうちに若くして王との3人目の子、ジャン=トリスタンの出産中に死去。ジャン=トリスタンも生後間もなく夭折した。アニェスを愛していたフィリップ2世は大変悲しんだとされる。

遺体は現イヴリーヌ県にあるサン=コランタン王立修道院(Abbaye Saint-Corentin)に埋葬された。アニェスとの間に生まれたフィリップ・ユルプル(1201年 - 1235年)と娘マリーは教皇庁により嫡子と認められた[2]。マリーはブラバント公アンリ1世と結婚した。

アニェスの死後、フィリップ2世はインゲボルグを監禁状態に置いていたが、教皇の要求やインゲボルグの兄ヴァルデマー2世との和解のため、1213年に彼女を呼び戻し、再び王妃として遇した。

脚注

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  1. ^ 佐藤、p. 121
  2. ^ 佐藤、p. 122

参考文献

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  • 佐藤賢一 『カペー朝 フランス王朝史1』 講談社現代新書、2009年