マルグリット・ド・ジュネーヴ
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マルグリット・ド・ジュネーヴ Marguerite de Genève | |
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出生 |
1180年ごろ ジュネーヴ伯領、ジュネーヴ |
死去 |
1257年4月8日 フランス王国、パリ |
埋葬 | サヴォイア伯国、サヴォイア、オートコンブ修道院 |
配偶者 | サヴォイア伯トンマーゾ1世 |
子女 | 本文参照 |
家名 | ジュネーヴ家 |
父親 | ジュネーヴ伯ギヨーム1世 |
母親 | ベアトリス・ド・フォーシニー |
マルグリット・ド・ジュネーヴ(フランス語:Marguerite de Genève, 1180年ごろ - 1257年4月8日)は、サヴォイア伯トンマーゾ1世の妃。ジュネーヴ伯ギヨーム1世とベアトリス・ド・フォーシニー(1160年 - 1196年)の娘。
生涯
[編集]マルグリットはフランス王フィリップ2世の3番目の妃となる予定であった。しかし、1195年に父ジュネーヴ伯ギヨーム1世に伴われフランスに向かっている時に、サヴォイア伯トンマーゾ1世により連れ去られた。マルグリットの美しさに惹かれたトンマーゾは、フィリップ2世がすでに結婚していると主張し(フィリップ2世は1193年にインゲボルグ・ア・ダンマークと結婚したがまもなくして離婚した)、マルグリットと結婚した[1]。マルグリットの父ギヨーム1世は結婚後まもなく病死し、母ベアトリスも翌年死去した。
マルグリットは死後、サヴォイアのオートコンブ修道院に埋葬された。
子女
[編集]- アメデーオ4世(1197年 - 1253年) - サヴォイア伯
- ヘレナ(1230年没)
- ウンベルト(1223年没)
- トンマーゾ2世(1199年頃 - 1259年) - ピエモンテ領主(のち伯爵)
- エリザベッタ(1233年没)
- アイモーネ(1237年没) - シャブレー領主
- エンリコ(1205年 - 1230年) - リヨン領主
- グリエルモ(1239年没) - ヴァランス司教およびヴィエンヌ首席司祭[2]
- アメデーオ - モーリエンヌ司教
- ピエトロ2世(1203年 - 1268年)[2] - リッチモンド領主、のちサヴォイア伯。
- フィリッポ1世(1207年 - 1285年) - リヨン大司教[2]。のち大司教位を辞し、結婚によりブルゴーニュ伯となり、1268年にサヴォイア伯となった。
- ボニファーチョ(1207年頃 - 1270年) - カンタベリー大司教[2]
- ベアトリーチェ(1205年 - 1267年) - 1219年にプロヴァンス伯レーモン・ベランジェ4世(1209年 - 1245年)と結婚[1]、4人の王妃の母となり、フランス王フィリップ3世およびイングランド王エドワード1世の母方の祖母となった。
- アリーチェ(1209年 - 1277年) - リヨンのサン・ピエール女子修道院長
- アガタ - リヨンのサン・ピエール女子修道院長
- マルゲリータ(1273年没) - 1218年にキーブルク伯ハルトマン4世と結婚[3]
- アヴィータ(1215年 - 1292年)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- Shacklock, Antonia (2021). “Henry III and the Native Saints”. Thirteenth Century England XVII: Proceedings of the Cambridge Conference, 2017. The Boydell Press. pp. 23-40
- Cox, Eugene L. (1974). The Eagles of Savoy. Princeton: Princeton University Press. ISBN 0691052166
- Gee, Loveday Lewes (2002). Women, Art, and Patronage from Henry III to Edward III: 1216-1377. The Boydell Press