マルコ・カンポス
マルコ・カンポス | |
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基本情報 | |
国籍 | ブラジル |
生年月日 | 1976年2月24日 |
出身地 |
ブラジル パラナ州クリチバ |
死没日 | 1995年10月15日(19歳没) |
死没地 |
フランス パリ |
親族 | ジュリオ・カンポス (弟) |
国際F3000選手権での経歴 | |
活動時期 | 1995年 |
所属 | ドラコ・エンジニアリング |
出走回数 | 8 |
優勝回数 | 0 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
シリーズ最高順位 | 13位 (1995) |
過去参加シリーズ | |
1994 | FOpel Lotus Euroseries |
選手権タイトル | |
1994 | FOpel Lotus Euroseries |
マルコ・アントニオ・フェレイラ・カンポス(Marco Antônio Ferreira Campos、1976年2月24日 - 1995年10月15日)は、ブラジルのレーシングドライバー[1]。
経歴
[編集]カンポスはレーシングカートで成功し、1992年と1993年にパン・アメリカン選手権で優勝した。 1993年には南米のカート選手権でも優勝。
1994年にヨーロッパに渡り、ドラコ・ジュニアチームからフォーミュラ・オペル・ロータスユーロ選手権に参戦。オランダのトム・コロネルとのチャンピオン争いを制してタイトルを獲得した。
友人のマリオ・アルベルト・バウアーが、マルコの契約交渉を担当していた。ドイツのミハエル・シューマッハの個人マネジャーであり、ドイツF3に参戦するWTSチームのウィリー・ウェーバーと交渉。ラルフ・シューマッハのチームメイトとしてマルコがWTSチームに加入することが一度は決まった。しかし、所属したドラコ・エンジニアリングチームが1995年から国際F3000選手権に参戦開始すると決まり、ブラジルのスポンサーはマルコをドラコにとどまらせ、WTSのF3ではなくF3000に参戦するよう要望を伝えるとWTS入りの話は流れ、マルコはF3を飛び級してドラコからF3000にステップアップすることになった。
1995年、ローラ・コスワースDFVをドライブする事になったマルコだったが、3000ccのルーキーシーズンだった為、苦戦したが第4戦エンナ・ペルグーサで4位入賞を果たした。マルコ自身にとってこれが最初で最後の国際F3000でのポイント獲得となった。
事故死
[編集]最終戦であるマニクールでの決勝レース、ファイナルラップでカンポスは深刻な事故にあってしまう。アデレード・ヘアピン手前のストレートで、左フロントタイヤがトーマス・ビアッジの車の右リアタイヤと衝突し、空中にはね上がった。彼の車はひっくり返り、カンポスの頭は逆さまに飛んでいる間にコンクリートの擁壁上部にぶつかった。 この事故で、深刻な頭蓋骨骨折と大規模な頭部外傷を負い、昏睡状態に陥った。カンポスは翌日、フランスのパリにあるラリボワジエール病院で亡くなった[2]。19歳没。
最終的なシリーズランキングは13位。
補足
[編集]弟のジュリオ・カンポスは、カートとフォーミュラ選手権に参戦し、2001年にアメリカでスキップバーバー選手権のタイトルを獲得し、現在はブラジルのストックカー・ブラジルで活躍している。
レース戦績
[編集]国際F3000選手権
[編集]年 | エントラント | シャーシ | エンジン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 順位 | ポイント |
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1995年 | ドラコ・エンジニアリング | ローラ | コスワース | SIL Ret |
CAT Ret |
PAU 13 |
PER 4 |
HOC Ret |
SPA 8 |
EST 9 |
MAG 10 |
13位 | 3 |
Source:[3] |
脚注
[編集]- ^ Obituary November 1995 Marco Campos Motorsport Magazine 2014年7月7日
- ^ “Brazilian driver dies after collision” (英語). The Independent (2011年10月22日). 2021年1月15日閲覧。
- ^ “1995 FIA International F3000 Championship” (英語). Motor Sport Magazine (2017年6月12日). 2021年1月15日閲覧。