マルハール・ラーオ・ホールカル
マルハール・ラーオ・ホールカル Malhar Rao Holkar | |
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ホールカル家当主 | |
マルハール・ラーオ・ホールカル | |
在位 | 1731年 - 1766年 |
別号 |
サルダール マハーラージャ |
出生 |
1693年3月16日 プネー近郊 |
死去 |
1766年5月20日 アーラムプル |
子女 | カンデー・ラーオ・ホールカル |
家名 | ホールカル家 |
父親 | カンドゥージー・ホールカル |
宗教 | ヒンドゥー教 |
マルハール・ラーオ・ホールカル(Malhar Rao Holkar, 1693年3月16日 - 1766年5月20日)は、インドのマラーター同盟、ホールカル家の当主(在位:1731年 - 1766年)。
生涯
[編集]マラーター王国の武将として
[編集]1693年3月16日、マルハール・ラーオはカンドゥージー・ホールカルの息子として生まれた[1]。
1717年、マルハール・ラーオはマラーター王国の遠征に従軍した[1]。
1724年、マルハール・ラーオはサルダールに任命され、宰相バージー・ラーオの命により、ラーノージー・ラーオ・シンディアとともにチャウタとサルデーシュムキーを徴収するためマールワー地方への遠征を行った[1]。
1726年には、マールワーに12のジャーギールを与えられたばかりか、1728年には騎兵5000の指揮官となった[1]。
マールワー地方の統治
[編集]1731年11月2日、マルハール・ラーオはマールワー2州の支配を宰相から委ねられ、マラーター同盟の諸侯となった[1]。1734年までにその支配はインドール、マヘーシュワルにまで及んだ[1]。
その後、マルハール・ラーオはバージー・ラーオの軍勢に随行し、1738年3月にデリーの戦いでムガル帝国を破り、同年12月にはボーパールの戦いでニザーム王国をはじめとする軍勢を破った。翌1738年1月に結ばれたボーパール条約では、ニザーム王国はマールワー地方を割譲せざるを得なかった。
また、ニザーム王国からのマールワーの割譲をムガル帝国に認めさせるため、1740年から1741年にかけて、王国宰相バーラージー・バージー・ラーオは帝国の首都デリーに向けて遠征を行い、同年7 月にその割譲と支配を認めさせた[2][2][3]。これにより、マラーター勢力のホールカル家の支配がマールワーに確立するところとなった。
1743年、ジャイプル王国の内乱に介入し、マードー・シングに味方し、ラームプラ、バーンプラ、トーンクを割譲された[1]。
1747年、マルハール・ラーオはインドールに巨大な宮殿ラージワーダーの建設を始めた[1]。
ムガル帝国への介入とアフガン勢力との交戦
[編集]その後、マルハール・ラーオ・ホールカルはインドールを中心に勢力を広げ、1754年にはシンディア家とともに皇帝アフマド・シャーの廃位とアーラムギール2世の擁立に関与するなど、帝位継承を左右するほどとなった。だが、アフガン勢力ドゥッラーニー朝が頻繁に侵入してくるようになり、北進するマラーター勢力と南下するアフガン勢力の衝突は避けることが出来なかった[4]。
1757年1月、アフガン王アフマド・シャー・ドゥッラーニーは帝国の首都デリーを占領し[4]、2月にデリーで虐殺・略奪を行い、その近郊マトゥラーやヴリンダーヴァンでも同様に虐殺を行った。
これに対し、王国宰相バーラージー・バージー・ラーオは弟ラグナート・ラーオをデリーへと派遣し、マルハール・ラーオもこれに随行した。同年8月にデリーの戦いでアフガン勢力を破ったのち、パンジャーブ地方への遠征に赴き、翌年5月の遠征終了までマラーター軍の一角として活動した[4]。
1759年末、アフマド・シャー・ドゥッラーニーがラホールを奪うと、1760年にマラーター王国はヴィシュヴァース・ラーオやサダーシヴ・ラーオ・バーウを指揮官にデリーへ軍勢を派遣、マルハール・ラーオもこれに合流し、8月にデリーを占拠した[4]。その後、11月にパーニーパトにおいて両軍は対峙した。
しかし、1761年1月14日、第三次パーニーパトの戦いでマラーター同盟軍は大敗し[5]、マルハール・ラーオは辛くも逃げ延びることが出来た[1]。この大敗で同盟の結束は緩み、諸侯の独立性が強くなった。
死
[編集]1766年5月20日、マルハール・ラーオ・ホールカルは死亡した。息子のカンデー・ラーオ・ホールカルは戦死していたため、孫のマーレー・ラーオ・ホールカルが当主位を継承した[1]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 小谷汪之『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』山川出版社、2007年。