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マートル・マカティアー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マートル・マカティアー
Myrtle McAteer
マートル・マカティアー
基本情報
フルネーム Myrtle June McAteer
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 同・ペンシルベニア州ピッツバーグ
生年月日 (1878-06-12) 1878年6月12日
没年月日 (1952-10-26) 1952年10月26日(74歳没)
死没地 同・カリフォルニア州ロサンゼルス
利き手
4大大会最高成績・シングルス
全米 優勝(1900)
優勝回数 1(米1)
4大大会最高成績・ダブルス
全米 優勝(1899・1901)
優勝回数 2(米2)

マートル・マカティアーMyrtle McAteer, 1878年6月12日 - 1952年10月26日[1])は、アメリカペンシルベニア州ピッツバーグ出身の女子テニス選手。フルネームは Myrtle June McAteer (マートル・ジューン・マカティアー)という。初期の全米選手権(現在の全米オープンテニス)で活躍した選手で、1900年の女子シングルス、1899年1901年の女子ダブルスで優勝した。

来歴

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マカティアーは1899年から1901年まで、全米選手権の女子シングルス・女子ダブルス部門に3度出場した。初出場した1899年は、シングルスは「チャレンジ・ラウンド」(Challenge Round, 挑戦者決定戦)の準々決勝でモード・バンクスに敗れたが、ジェーン・クレーブンと組んだ女子ダブルスで優勝する。1900年の女子シングルスで、マカティアーは「チャレンジ・ラウンド」決勝でエディット・パーカーを破り、大会前年度優勝者マリオン・ジョーンズへの挑戦権を得たが、ジョーンズはこの大会に出場しなかったため、ここでマカティアーの初優勝が決まった。チャレンジ・ラウンド勝者と大会前年度優勝者による「オールカマーズ・ファイナル」(All-Comers Final)方式の場合、自動的に決勝に進出できる前年優勝者が出場しなかったときは、優勝記録表にはチャレンジ・ラウンド優勝者と準優勝者の名前が記載される。したがって、1900年の全米選手権女子シングルス優勝記録にはマカティアーとパーカーの名前を記載する。

1901年の全米選手権では、マカティアーは大会前年優勝者として「オールカマーズ・ファイナル」に出場したが、チャレンジ・ラウンド勝者のエリザベス・ムーアに 4-6, 6-3, 5-7, 6-2, 2-6 の5セット・マッチで敗れた。1891年から1901年まで、全米選手権の女子シングルス決勝は5セット・マッチで行われたが、マカティアーとムーアの決勝戦を最後に廃止された。1894年から1901年まではチャレンジ・ラウンド決勝も5セット・マッチで実施され、マカティアーに挑戦したムーアはマリオン・ジョーンズと5セットを戦っていた。女子ダブルス決勝では、ムーアとジョーンズの組の棄権により、マカティアーとジュリエット・アトキンソンの組が優勝した。これがマートル・マカティアーの最後の全米選手権出場になった。

マートル・マカティアーは長年にわたり、シンシナティ開催のテニストーナメント(現在のシンシナティ・マスターズ)で活躍した。この大会は1899年に創設されたもので、アメリカのテニス・トーナメントとしては全米オープンに続く古い大会である。

カリフォルニア州の死亡記録」(1940年-1997年)によれば、マートル・ジューン・マカティアーは1952年10月26日にカリフォルニア州ロサンゼルスにて74歳で死去した。

参考資料

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  • Bud Collins, “Total Tennis: The Ultimate Tennis Encyclopedia” Sport Classic Books, Toronto (2003 Ed.) ISBN 0-9731443-4-3
  • http://www.ancestry.com/ で“Birth, Marriage & Death Records (SSDI)”をクリックし、名前を入力すると“California Death Index, 1940-1997”(カリフォルニア州の死亡記録、1940年-1997年)が出てくる。

脚注

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  1. ^ 彼女は「生没年月日不明」の人物と考えられていたが、最近の研究で詳細が判明した