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マーベル・ウイン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マーベル・ウィン
Marvell Wynne
ピッツバーグ・パイレーツ時代
(1984年)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 イリノイ州シカゴ[1]
生年月日 (1959-12-17) 1959年12月17日(64歳)
身長
体重
5' 11" =約180.3 cm
175 lb =約79.4 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 外野手
プロ入り 1978年 アマチュアFA
初出場 MLB / 1983年6月5日
NPB / 1991年4月6日
最終出場 MLB / 1990年10月3日
NPB / 1991年10月12日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

マーベル・ウインMarvell Wynne1959年12月17日 - )はアメリカ合衆国イリノイ州出身のプロ野球選手。ポジションは外野手。息子はサッカー選手で同名のマーベル・ウイン

来歴・人物

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1983年から1990年まで8年間メジャーリーグピッツバーグ・パイレーツサンディエゴ・パドレスシカゴ・カブスでプレーし、その実績が考慮されて1億4000万円という当時の日本球界では高額の年俸で1991年阪神タイガースに入団[1]。開幕からスタメン出場を果たし、規定打席にこそ到達するものの、打率が.230と規定打席到達者中最下位に終わるなど、成績不振のため1年で退団した[1]。ウイン獲得は、当時コーチだった佐々木恭介の強いプッシュによるものだった。しかし、のちに佐々木は「ウインには騙されました」とラジオ番組で語っている。

同年度入団した外国人に、1991年度年俸が4000万とウインの年俸の3分の1以下であるトーマス・オマリーがいる。オマリーは日本野球に順応しようと食事では箸を使うなど努力し、日本野球界で成功した。対照的に、入団前はオマリー以上の評価を受けていたウインは、そういった日本に適応するための努力をせず、結果を残せず明暗を分けた。あまりの明暗ぶりに、両選手を比較して話すファンも多く、「凡打製造機」と揶揄する向きもあったが、その一方で、凡打した際に走塁の手を抜くなど時折り怠慢プレーを見せるオマリーに対し、1塁まで常に全力疾走し内野安打や失策による出塁もあったウインについて「この辺りがメジャーとマイナーを行ったり来たりのオマリーとの差だ」とそのプレーに対する姿勢を評価する評論家もいた。1991年7月7日の対巨人戦(東京ドーム)、延長12回に桑田真澄からドーム最上階に叩き込む150m級の決勝本塁打を放った。ウインは前述の通り目立った成績を残せず、その試合で3回から登板し無失点に抑えて勝利投手となった仲田幸司もこの年は絶不調で1勝7敗(つまりこの試合がシーズン唯一の勝利)だったため、当時阪神ファンは「七夕の奇跡」と珍しがった。

エピソード

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  • 1991年、阪神は甲子園での巨人戦はたった1勝しか出来なかったが、その唯一の勝利である3-2と逆転サヨナラ勝ちした7月30日の試合[2]で、一塁へのゴロ性の当たりが偶然サヨナラ内野安打となり、お立ち台に上がったことがある。
  • 1991年 5月19日、この日絶好調のウインは5回までに二塁打、三塁打、本塁打を放ち、サイクルヒットにあとシングルヒットのみと王手をかけるも、次の打席で長打コースの打球を放ち、ウインは一塁ベースをためらわずに駆け抜け二塁打となり、惜しくも達成とはならなかった。
  • カブス時代の1989年には、チームメイトのショーン・ダンストン1990年日米野球で来日)と試合前に大喧嘩し、ダンストンに全治1ヶ月の大怪我を負わせた。
  • パドレス時代の1987年4月13日には、ウインが初回先頭打者本塁打を打つと、続く2番のトニー・グウィン、3番のジョン・クルックが連続本塁打を放ち、MLB史上初、20世紀最初で最後の初回先頭打者から三連続本塁打を記録した。二例目は21世紀に入ってからの2002年5月29日ブレーブスが記録している。 

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1983 PIT 103 415 366 66 89 16 2 7 130 26 12 10 7 1 38 0 3 52 3 .243 .319 .355 .674
1984 154 702 653 77 174 24 11 0 220 39 24 19 5 2 42 0 0 81 8 .266 .310 .337 .647
1985 103 363 337 21 69 6 3 2 87 18 10 5 7 0 18 2 1 48 8 .205 .247 .258 .505
1986 SD 137 308 288 34 76 19 2 7 120 37 11 11 1 3 15 2 1 45 5 .264 .300 .417 .716
1987 98 213 188 17 47 8 2 2 65 24 11 6 4 1 20 1 0 37 5 .250 .321 .346 .666
1988 128 369 333 37 88 13 4 11 142 42 3 4 3 2 31 2 0 62 3 .264 .325 .426 .752
1989 105 314 294 19 74 11 1 6 105 35 4 1 6 1 12 1 1 41 3 .252 .282 .357 .640
CHC 20 51 48 8 9 2 1 1 16 4 2 0 1 0 1 1 1 7 0 .188 .220 .333 .553
'89計 125 365 342 27 83 13 2 7 121 39 6 1 7 1 13 2 2 48 3 .243 .274 .354 .628
1990 92 202 186 21 38 8 2 4 62 19 3 2 1 0 14 3 1 25 4 .204 .264 .333 .597
1991 阪神 123 473 453 40 104 18 5 13 171 44 6 2 0 1 18 2 1 96 12 .230 .260 .377 .637
MLB:8年 940 2937 2693 300 664 107 28 40 947 244 80 58 35 10 191 12 8 398 39 .247 .297 .352 .649
NPB:1年 123 473 453 40 104 18 5 13 171 44 6 2 0 1 18 2 1 96 12 .230 .260 .377 .637

記録

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背番号

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  • 36(1983年 - 1985年)
  • 7(1986年)
  • 16(1987年 - 1989年)
  • 25(1989年 - 1990年)
  • 40(1991年)

関連項目

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脚注

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  1. ^ a b c プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、74ページ
  2. ^ 朝日新聞東京本社版1991年7月31日付朝刊22面、阪神にも意地、対巨人戦甲子園初勝利

外部リンク

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