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ムクシ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ムクシは、明朝後期の建州女直で、アイシン・ギョロ氏太祖ヌルハチの第四女。

生母は庶妃・嘉穆瑚覺羅氏。巴布泰と巴布海は同父母弟。

  mukusi
出身氏族
アイシン・ギョロ氏
名字称諡
漢字音写
  • 木庫石(清)[1]
  • 穆庫什(清)[2]
  • 穆庫什(清)?
出生死歿
出生年 萬曆23年1596
死歿年 清順治16年1659
親族姻戚
ヌルハチ
夫① ブジャンタイ
夫② エイドゥ
エビルン
孫女 孝昭仁皇后

略歴

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三人の夫

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萬曆35年1608烏碣岩での戦役ウラを大敗させたヌルハチは、さらなる打撃を与えようと翌36年1608、長子チュイェンらを派遣し、難攻不落と言われたウラの要塞、イハン山城を攻略させた。驚懼したウラ国主ベイレブジャンタイはヌルハチに媾和を求め、姻戚関係の強化のためにヌルハチの娘を妻りたいとせがんだ。そこで降嫁したのがムクシである[2]。ブジャンタイにはこの頃までに、エシタイ・オンジェ姉妹 (ともにシュルハチ女) が降嫁していた。

しかしブジャンタイはイェヘとヌルハチとの間で叛服常なく、ヌルハチへの反感は妻へも向けられた。萬曆40年1612にはイェヘの故人ブジャイの女 (北關老女) を巡って二人目の妻オンジェに鏑矢を当て、怒ったヌルハチの親征により諸要塞を潰されたが、それに懲りず翌41年1613にはオンジェとムクシを監禁しようとした為、またもヌルハチの親征により今度はウラ居城が制圧され、将兵を失った末にイェヘへ亡命した。国主を失ったウラ領民がことごとくヌルハチに帰順し、滿洲マンジュに編入されたことで、ウラは滅亡した。

ムクシはウラ滅亡に伴いヌルハチの許へ連れ戻され、後の開国五大臣の一人ニョフル氏エイドゥに再嫁し[3]エビルン (康熙帝の輔政四大臣の一) を含む二子一女をもうけた[4]。後夫エイドゥ逝去後は、満洲族の風習に従ってエイドゥ第八子・圖爾格に三嫁した[5]

娘の懐妊詐欺騒動

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崇德元年1636旧暦11月、ホン・タイジにより七名の公主が冊封された。すべてホン・タイジの姉妹や娘といった女性親族であった。このうち「穆庫西受爾如我之妹當循大禮賜爾册文封爲和碩公主爾勿恃吾之妹越份悖道逆理」という勅旨の「穆庫西」が即ちムクシを指すとされ、和碩公主に冊封されたものとされる。

しかし崇德2年5月、ムクシの娘が自らの夫・尼堪に側室をとらせまいと、他人の子を自分の子と偽ったのが発覚し、ムクシの娘を含む関係者六名が死を賜わった。ムクシは死罪こそ免れたものの、和碩公主の地位を剥奪され、三夫・圖爾格との離縁を迫られ、里にひきとられて兄・巴布泰と弟・巴布海の扶養を受けた。圖爾格も死罪を免れたが、世職を剥奪された。エビルンは母ムクシと死を賜わった妹を庇い、和碩鄭親王に対し承政を告訴したために、襲承した昂邦章京の世職を解かれた。尼堪は無罪を言い渡された。

順治16年1659旧暦5月、ムクシ死去、享年64歲。

子女

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  • 名不詳:エイドゥ女。尼堪貝子妻。[4]

脚註

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典拠

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  1. ^ “戊申年三月”. 太祖武皇帝實錄. 2. "布占太遣大臣來求曰「吾累次背盟獲罪於恩父誠無顏面若得恩父之女與我爲妻吾永賴之。」太祖復將生女木庫石公主妻之遣侍臣以禮儀往送" 
  2. ^ a b “戊申歲萬曆36年1608 3月/段72”. 滿洲實錄. 3. "布占泰遣其臣來求曰「吾累次背盟獲罪於恩父誠無顏面若得恩父之女與我爲妻吾永賴之」太祖復將生女穆庫什公主妻之遣侍臣以禮儀徃送" 
  3. ^ “額亦都列傳”. 滿州名臣傳. 1下. "初妻以宗女後尚和碩公主" 
  4. ^ a b c d 鑲黃旗滿州鈕祜祿氏弘毅公勲績. . pp. 22-24 
  5. ^ “將帥1 (額亦都子圖爾格)”. 國朝耆獻類徵初編. 262. 明文書局. pp. 169-174. "二年閏四月以罪黜初圖爾格和碩公主公主所生女爲貝勒尼堪福晉福晉無子詐取僕女爲女至是事敗圖爾格以坐罪論死得旨免削職二年八月仍令攝都統事" 

註釈

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文献

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(編輯中)