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庶妃嘉穆瑚覺羅氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

庶妃嘉穆瑚覺羅氏は、明朝後期のギャムフ・ギョロgiyamuhū gioro女直太祖ヌルハチ庶妃 (妾媵) の一。

茅 瑞徵『東夷考略』(明末) では「眞奇zhēnqí」として現れる。滿洲正白旗人。

略歴

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『愛新覺羅宗譜・星源集慶』に拠れば父は貝渾巴晏で、『八旗滿洲氏族通譜』巻12「嘉木湖giyamuhū地方伊爾根覺羅irgen gioro氏」の貝渾巴顏boigon bayan[1]とは同一人物とされる[2]。ヌルハチに叛きハダに接近しようとした為、エイドゥ (後の開国五大臣の一) の征討を受け、父子ともども五人が殺害されたとされる[注 1]のが萬曆21年1593以前のことである[3][4]

萬曆20年1592に後の鎮国恪僖公・巴布泰、同23年1595には後の和碩公主ムクシ、翌24年1596には後の鎮国将軍・巴布海、その翌25年1597には皇五女 (エイドゥ二子・達啓の妻)、同28年1600には皇六女 (イェヘ・ナラ氏蘇鼐の妻) を出産した。ヌルハチ生前には正式に冊封された后妃はなかったが、後世の史料では庶妃と呼称され、地位は福晋より下のメカケまたはハシタメ程度とされる。

順治3年1646、宮廷生活から解放されて自由の身となり、康熙初年に死去した。『欽定盛京通志』巻21に拠れば、福陵右方の壽康太妃園寢に三基の丘塚があり、中間のものが壽康太妃、両側のものはそれぞれ安布福晉と、綽奇德和母すなわち綽奇福晉とされる。この内、前者・安布福晉の素性については多説あり、一説には庶妃ギャムフ・ギョロ氏ともされる。

子女

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  • 巴布泰
  • 巴布海

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  • 皇四女・ムクシブジャンタイ (ウラ国主ベイレ)、ニョフル氏エイドゥ (開国五大臣の一)、圖爾格 (エイドゥ第八子) の順番に嫁いだ。
  • 皇五女:達啓 (エイドゥ二子) 妻。
  • 皇六女:イェヘ・ナラ氏蘇鼐の妻。

脚註 

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(編輯中)

典拠

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  1. ^ “嘉木湖giyamuhū地方伊爾根覺羅氏 (貝渾巴顏boigon bayan)”. 八旗滿洲氏族通譜. 12. https://zh.wikisource.org/wiki/八旗滿洲氏族通譜_(四庫全書本)/卷12#貝渾巴顔. "正白旗人。世居嘉木湖地方。國初來歸。" 
  2. ^ 一、「同じハラの兄弟」とギョロ=ハラの構成. “ギョロ=ハラ Gioro hala 再考 - 特に外婚規制をてがかりに”. 立命館文學 (619): 92-96. 
  3. ^ a b “額亦都列傳”. 滿州名臣傳. 1下. p. 5. "嘉穆瑚之貝揮巴顏謀叛附哈達命討之誅其父子五人以循癸巳年九月……" 
  4. ^ a b “將帥1 (額亦都)”. 國朝耆獻類徵初編. 261. pp. 13-15. "家穆瑚之貝勒揮巴顏謀叛附哈達命討之誅其父子五人以還癸巳年九月……" 

註釈

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  1. ^ 维基百科「庶妃嘉穆瑚觉罗氏」は「……命額亦都……前去討伐父子五人,並且懸首示眾以示儆戒。」とし、典拠として『清史稿』巻225 (列傳12・額亦都) を挙げているが、同文献には「……命額亦都討之,誅其父子五人以徇。」とあり、晒し首にしたとは書かれていない。『滿洲名臣傳』や『國朝耆獻類徵初編』ではそれぞれ「以循」[3]「以還」[4]とあり、いづれも「(父子五人を誅殺して)帰還した」としている。

文献

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論文

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