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メンケペルラー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

メンケペルラー(Menkheperre 在職:紀元前1045〜992年)は、古代エジプト第21王朝時代のアメンの大司祭[1]

概要

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大司祭パネジェム1世とその妻ドゥアトハトホル=ヘヌトタウイの息子。異母兄に第21王朝の王プスセンネス1世、同母兄に前任の大司祭マサハルタジェドコンスエフアンクフがいる。

スメンデス1世の治世25年目に大司祭に就任し、プスセンネス1世の治世とほぼ同じ年数在職した[2][1]。神官勢力の絶頂期にあたるこの時代、その長である大司祭は王に等しい世俗の権力を得ており、メンケペルラーもエジプト南部の事実上の支配者として、自信の名を文書に記す際はカルトゥーシュを用いた。

しかし、父パネジェム1世がカーケペルラー・セテプエンラー(『ラーの魂の出現、アメンに選ばれし者』の意味)という明確な現人神としての称号を用いたのに対し、メンケペルラーは曾祖父ヘリホルと同じヘムネチェルテピアメン(『アメンの第一の預言者』の意味)の称号を用いた[3]。これはメンケペルラーが自らファラオのような神性を帯びることはなく、あくまでも神の意志の代行者としての立場に留まっていた事を示す。

そのため、メンケペルラーの大司祭としての権力は、父の代と比較して幾分か縮小されていたと考えられ、プスセンネス1世の娘イセトエムケブCを妻に迎えている事もその証左と見ることができる[4][1]。王弟である司祭がタニス王家に臣従する姿勢を見せた結果、第20王朝末期から続いた権力の二重構造はある程度解消されたらしく、後継者であるスメンデス2世以降の司祭たちが王号やカルトゥーシュを用いる事は無くなった。

家族

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    • イセトエムケブC - プスセンネス1世とその妻ウイアイの娘。メンケペルラーとは姪の関係にあたる。
  • 息子
    • ネスバネブジェド2世(スメンデス2世) - 後継者
    • パネジェム2世 - ネスバネブジェドの弟。兄の死後に司祭の座を引き継ぐ。姉のイセトエムケブDと結婚し、プスセンネス2世の父となる。
    • ホリ - アメンとセトの司祭
    • プスセンネス - コプトスのミン、ホルス、イシスの司祭。
    • ヘメンタウイ - 義娘。スメンデス2世の妻
    • イセトエムケブD - 弟パネジェム2世の妻でプスセンネス2世の母。
    • メリトアメン - アメンの巫女。
    • ガウトセシェン メンチュ神の巫女。アメンの第三預言者ジェネフェルの妻。同じく第三者預言者のパネジェムとメンケペルラーの母。[4]

脚注

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出典

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  1. ^ a b c クレイトン 1998, p.224
  2. ^ ドドソン, ヒルトン 2012, p.197
  3. ^ クレイトン 1998, p.225
  4. ^ ドドソン, ヒルトン 2012, p.203

注釈

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参考文献

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  • ピーター・クレイトン 著、藤沢邦子 訳、吉村作治監修 編『古代エジプト ファラオ歴代誌』創元社、1999年4月。ISBN 4422215124 
  • ジョイス・ティルディスレイ英語版 著、月森左知 訳、吉村作治監修 編『古代エジプト女王・王妃歴代誌』創元社、2008年6月。ISBN 9784422215198 
  • エイダン・ドドソン, ディアン・ヒルトン 著、池田裕 訳『全系図付エジプト歴代王朝史』東洋書林、2012年5月。ISBN 978-4887217980 

関連項目

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先代
ラムセス11世
古代エジプト王
154代
前1070年 - 前1043年
次代
アメンエムニスウ