モゲ
モゲ(Möge、? - 1261年)は、チンギス・カンの子のトルイの庶子で、モンゴル帝国の皇族である。異母兄にはモンケ、クビライ、フレグ、アリクブケらがいた。『元史』などの漢語史料では末哥/莫哥/穆哥と記され、『集史』などのペルシア語表記でموگهMūgeと記された。
生涯
[編集]『集史』によるとモゲの母はクビライの乳母であり、クビライとは乳兄弟の間柄にあった。このため、帝国の内乱期には常にクビライ側に立って行動を起こしている。
グユク・カアンが1248年に亡くなった後、新たなカアンを決めるクリルタイに於いて、モゲはバトゥらと協力して兄のモンケを支持した。これによってモンケが第4代カアンとなると、1257年にモンケより河南府5512戸を賜っている。
1258年、モンケが南宋へ親征すると、モゲはモンケ率いる中軍に属し、1軍を率いて洋州より米倉関に入った。
1259年、モンケが親征の途上に四川の釣魚山で亡くなると、モゲはいち早くクビライに使者を派遣して北方モンゴリアに戻り、カアン位に即くよう進めた。クビライとアリクブケの間でカアン位を巡ってモンゴル帝国帝位継承戦争が勃発すると、モゲはクビライ側に立って参戦し、右翼軍団を纏める働きをした[1]。
中統元年(1260年)12月、クビライを助けた功績から銀2500両を賜ったが、その後程なくして亡くなった。中統2年(1261年)には後を継いだチントムが永寧王を封ぜられ、以後モゲ家は永寧王家として知られるようになった。
子孫
[編集]『元史』にはモゲ(末哥)の息子として「昌童大王」の名しか伝えていないが、『集史』などのペルシア語史料はチントム(『元史』の昌童)、ボラド、エブゲン、ダシュ・テムルの四子がいたと記載している。
- モゲ
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 杉山正明『モンゴル帝国の興亡(下)世界経営の時代』講談社、1996年
- 村岡倫「永寧王の系譜とその投下領」『13・14世紀東アジア史料通信』3号、2005年
- 村岡倫「元代永寧王家の系譜とその投下領」『東洋史苑』66号、2006年