ヤロポルク・ロマノヴィチ
ヤロポルク・ロマノヴィチ Ярополк Романович | |
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スモレンスク公 | |
在位 | 1172年 - 1174年、1175年 - 1177年 |
出生 |
1151/6年 |
死去 |
1177年以降 |
家名 | リューリク家 |
父親 | キエフ大公ロマン |
母親 | ノヴゴロド・セヴェルスキー公スヴャトスラフの娘 |
ヤロポルク・ロマノヴィチ(ロシア語: Ярополк Романович、1151/6年 - 1177年以降)は、スモレンスク公ロマンの子である。スモレンスク公(在位:1172年 - 1174年、1175年 - 1177年)、トリポリエ公(在位:1177年)。
生涯
[編集]ヤロポルクは、父のロマンがキエフ大公となった際に、自身最初のスモレンスク公位に就いた。その背景には、ウラジーミル大公アンドレイ(ru)が、自身の兄弟でありキエフ大公であったグレプの死後に、ウラジーミルがキエフ大公位に就いたことを不満とし、ウラジーミルのキエフ大公位を、ヤロポルクの父のロマンに与えたという経緯がある。ロマンはスモレンスク公国を所領としていたが、スモレンスク公国は、アンドレイの領有する強国・ウラジーミル大公国と接しており、ロマンはアンドレイにとって御しやすい存在であった。ヤロスラフがキエフ大公位に就くと、ロマンが再びスモレンスク公となった。
その後、政権闘争に敗れたヤロスラフがキエフを追われると、ロマンが再びキエフ大公位を占め、ヤロポルクにスモレンスク公国を任せようとした。しかしスモレンスクの人々が、公位にムスチスラフを招聘したため紛争となった。結果的にはヤロポルクが再びスモレンスク公位に就いた。
ポロヴェツ族とのロストヴェツの戦いの後の1177年、この戦いの敗因の責を問うという理由で、チェルニゴフ公スヴャトスラフ(ru)が、ヤロポルクのおじのダヴィドの所領の割譲を要求した。ロマンはこの要求を呑まなかったが、キエフ大公位のスヴャトスラフへの譲渡を余儀なくされ、再びスモレンスクに戻った。ヤロポルクもまた再びスモレンスク公位を父に返すことになった。
妻子
[編集]妻の名は不明。娘(名はおそらくヴィスラヴァ)はポンメルン公ボギスラフ1世(ru)の妻となったとする説がある。
参考文献
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