コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ラミア (ギリシャ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ラミア
Λαμία
ラミア市街の中心部
ラミア市街の中心部
位置
ラミアの位置の位置図
ラミアの位置
位置
ラミアの位置(ギリシャ内)
ラミア
ラミア
ラミア (ギリシャ)
ラミアの位置(地中海内)
ラミア
ラミア
ラミア (地中海)
ラミアの位置(ヨーロッパ内)
ラミア
ラミア
ラミア (ヨーロッパ)
座標 : 北緯38度54分 東経22度26分 / 北緯38.900度 東経22.433度 / 38.900; 22.433
行政
ギリシャの旗 ギリシャ
 地方 中央ギリシャ
  フティオティダ県
 市 ラミア
地理
面積  
  市域 413.5 km2
標高 50 m
人口
人口 (2001年現在)
  市域 5万8601人
    人口密度   142人/km2
その他
等時帯 EET (UTC+2)
夏時間 EEST (UTC+3)
公式ウェブサイト : http://www.lamia.gr/

ラミアΛαμία)は、ギリシャ中央ギリシャ地方の主都であり、フティオティダ県の県都である。

町の名称

[編集]

ラミアの由来

[編集]

語源には諸説ある。

ジトゥニオン

[編集]

中世には、ラミアの町はジトゥニオン(Ζητούνιον/Zetounion)と呼ばれ、869年に開かれた第8回キリスト教公会議の中で言及されたのが初めであり、その後変化を経つつも、19世紀初めまでジトゥニ(Ζητούνι/Zitouni)として名称は残った。この名称についてもいくつかの説があり、アラビア語の"zeitun"(オリーヴ)から取られたという説や、スラヴ語の"sitonion"(川の向こうの地)からだという説もある。1204年にラテン帝国がジトゥニオンを攻略すると、この町はジルトゥニオン(Zirtounion)、ジトニオン(Zitonion)、ジルトン(Girton)(フランス人支配時)、エル・シト(El Cito)(カタルーニャ人支配時)という名称で呼ばれるようになった。さらに、オスマン帝国時代にはイズティン(Iztin)とも呼ばれた。

歴史

[編集]

古くは紀元前5千年紀の頃から人間が住んでいたが、ラミアが歴史に登場するのは、紀元前424年に発生した地震の後からである。その頃のラミアは、スパルタの重要な軍事基地であった。その後マケドニア王国アレクサンドロス3世(大王)に征服されたが、大王の死後、アテナイギリシアの他のポリスは、マケドニア王国の支配に対して反発した。この時マケドニア王国の将軍アンティパトロスは、ラミアの町に逃れた。この紀元前323年から紀元前322年にかけて行われたラミア戦争は、アテナイの将軍レオステネスの死と、20,000人強のマケドニア王国軍のラミア到着によって終結した。その後、特にアエトリア同盟の統治下に入った紀元前3世紀には、ラミアの町は繁栄した。しかし、紀元前190年に、共和政ローマ執政官マニウス・アキリウス・グラブリオがラミアを占領すると、町の繁栄は終わった。1829年にはギリシャ領となり、当時は国境の町となった。

観光

[編集]
アクロポリスからのラミア市街の風景

人口推移

[編集]
市人口 年間増加数 年間増加率
1981 4万1846人
1991 5万5445人 +1360人/年 +28.5‰/年
2001 5万8601人 0+316人/年 0+5.6‰/年

著名な出身者

[編集]

姉妹都市

[編集]

スポーツ

[編集]
  • ラミアFC
  • ラミア・スキー登山クラブ(XOOL)
  • ヨニコス・ラミアスBC
  • GSラミア
  • ニレアス・ラミアス
  • ヨニコス・ネアス・マグニシアス

出典

[編集]
  1. ^ 高津春繁 (1960), “ラモス”, ギリシア・ローマ神話辞典, 岩波書店 

参考文献

[編集]