コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

リオネッロ・マンフレドーニア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
リオネッロ・マンフレドーニア
名前
ラテン文字 Lionello Manfredonia
基本情報
国籍 イタリアの旗 イタリア
生年月日 (1956-11-27) 1956年11月27日(68歳)
出身地 ローマ
身長 182cm
体重 73kg
選手情報
ポジション MF
代表歴
1977-1978 イタリアの旗 イタリア 4 (0)
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

リオネッロ・マンフレドーニア(Lionello Manfredonia、1956年11月27日 - )は、イタリア出身の元同国代表の元サッカー選手。ポジションはMF

経歴

[編集]

19歳の時、SSラツィオでリベロとしてプロデビュー[1]。イタリアU-21代表を経て、1977年にイタリアフル代表に選出され、ワールドカップ・アルゼンチン大会に参加したが、エンツォ・ベアルツォットとの仲違いにより、代表から外れ、イタリア代表での出場機会は僅か4試合に終わった[1]。1980年、トトネロスキャンダルに巻き込まれ逮捕され、3年半の出場停止を言い渡された[1]。1982年のワールドカップ優勝による恩赦で、1982-83シーズンに複帰した[1]。そのシーズン、チームのセリエAに貢献したが、1984-85シーズンに再びセリエB降格が決まると、1985-86シーズンユヴェントスへ移籍した[1]。1985年のインターコンチネンタルカップアルヘンティノスとの対戦でも先発出場して優勝を果たした[2]。このシーズン、リーグ優勝も果たした[1]。1986-87シーズン、公式戦9y得点を挙げる活躍を見せたが、1987-88シーズンにASローマに移籍、この移籍は大きな驚きをもって受け止められると共に、ラツィオファンたちから非難された[1]

所属クラブ

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g Manfredonia: il contestato passaggio alla Roma, la tragedia sfiorata e il ritiro”. GOAL (2020年9月25日). 2023年9月1日閲覧。
  2. ^ ARGENTINOS BRILLÓ PERO LA INTERCONTINENTAL SE LE ESCAPÓ EN LOS PENALES”. デポコム. 2022年2月25日閲覧。