マルコ・タルデッリ
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名前 | ||||||
愛称 | スキッツォ | |||||
ラテン文字 | Marco Tardelli | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | イタリア | |||||
生年月日 | 1954年9月24日(70歳) | |||||
出身地 | カパンネ・ディ・カレッジネ | |||||
身長 | 178cm | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF, DF | |||||
代表歴 | ||||||
1976-1985 | イタリア [1] | 81 | (6) | |||
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
マルコ・タルデッリ(Marco Tardelli、1954年9月24日 - )は、イタリア・カパンネ・ディ・カレッジネ出身の元同国代表サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはMF。豊富な運動量とボール奪取能力を武器とした1970年代後半から1980年代中期のイタリアを代表する選手の一人。1978年、1982年、1986年と3度のワールドカップに出場した。
クラブ略歴
[編集]四兄弟の末っ子で、父親はANASの職員であった[2]。幼少期、本人はサッカーをしたかったが、学業の優先を望む両親により、サッカーをすることを止められていた[2]。サンマルティノのユースチームに入団し、左右のフルバックとして優れたプレーを見せ、ビッククラブからも注目されたが、体の線が細いことが災いし、獲得を見送った[2]。1971年にピサが獲得した[2]。ウエイターとしても働いていたが、1973年3月25日にオルビア戦でトップチームでのデビューを飾った[2]。このシーズン、エンポリとのトスカーナダービーで、プロとして初ゴールを決めた[2]。ここで活躍を見せると、1974-75シーズン、コモ・カルチョ に引き抜かれ、チーム史上初となるセリエA昇格の立役者となった[2][3]。
1975年、インテルナツィオナーレ・ミラノとユヴェントスFCが獲得を争ったが、1975-76シーズンからユヴェントスへ移籍、ハーフバックやフルバックとして、リーグ戦全30試合中、26試合に起用された[2]。1975年12月14日には、インテル戦でセリエA初ゴールを決めた[2]。1976-77シーズン、にジョヴァンニ・トラパットーニが監督に就任すると、フルバックから中盤へとコンバートされ、このシーズンの公式戦49試合で7得点を記録した[2]。この年、リーグ優勝を果たすと、UEFAカップでも優勝、これはクラブ史上初となる、ヨーロッパの舞台でのタイトルだった[2]。翌1977-78シーズンは、公式戦通算36試合6得点を記録、チームはリーグを連破した[2]。1980-81シーズン、リーグ戦で7得点を決め、チームではリアム・ブレイディにい次いで多くの得点を決めるなど、リーグ優勝に貢献、キャリア最高とも言えるシーズンを過ごした[2]。1981-82シーズン、チームはこのシーズンもリーグ優勝を果たした。1982-83シーズン、コッパ・イタリアを制したが、チャンピオンズカップでは決勝でハンブルガーに敗れ、リーグもASローマに及ばず、2位となった[2]。
1983-84シーズン、リーグ優勝トUEFAカップウィナーズカップに優勝、このシーズンは公式戦44試合で8得点[2]。1984-85シーズン、30歳になり、肉体的にやや衰えたと判断され、トラパットーニは、再びフルバックとして起用した[2]。UEFAチャンピオンズカップ決勝のリヴァプール戦に出場して優勝、これがユヴェントスでのラストマッチとなった[2]。
1985-86シーズン、アルド・セレーナのユヴェントス移籍に絡み、インテルへと移籍した[2]。このシーズン、UEFAカップ準決勝でレアル・マドリードと対戦、1得点を決めた1stレグに勝利したが、2ndレグで逆転され、決勝進出を逃した[2]。1986-87シーズン限りでインテルを離れ、スイスの FCザンクト・ガレンで1シーズンプレーして現役を引退した。
引退後は指導者の道へ進みイタリア国内のクラブやU-21イタリア代表の監督などを歴任している。
代表経歴
[編集]1976年4月7日のポルトガル戦にて代表初出場[2]。1978年1月25日のスペイン戦で代表初得点をマークした[2]。
1978年のワールドカップアルゼンチン大会では、3位決定戦のブラジル戦以外の全試合に出場した[2]。
1980年、地元イタリアで開催されたUEFA欧州選手権1980では、イングランド戦で決勝点を決めた[2]。3位決定戦でPK戦の末にベルギーに敗れ、4位になった[2]。
1982年のワールドカップ・スペイン大会では同国を3度目の世界制覇に貢献した。このうちスペイン大会では2次リーグのアルゼンチン戦でゴールを挙げ[4][2]、決勝の西ドイツ戦では決勝ゴールを決めて[4]、チームを優勝に導いた[2]。両手を握り締めながら雄叫びを上げ、一心不乱に何度もガッツポーズをする姿がよく知られている[2]。
1985年9月25日のノルウェー戦にキャプテンとして出場したのが、代表最後の出場試合で、1986年のワールドカップメキシコ大会には参加したが、出場機会は無かった[2]。代表チームでは、通算81試合に出場した[2]。
所属クラブ
[編集]- 1972-1974 ピサSC
- 1974-1975 コモ・カルチョ
- 1975-1985 ユヴェントスFC
- 1985-1988 インテルナツィオナーレ・ミラノ
- 1987-1988 FCザンクト・ガレン
代表歴
[編集]- 1976-1985 イタリア代表 81試合6得点
指導歴
[編集]- 1988-1990 U-16イタリア代表
- 1990-1993 U-21イタリア代表 (アシスタントコーチ)
- 1993-1995 コモ・カルチョ
- 1995-1998 ACチェゼーナ
- 1998-2000 U-21イタリア代表
- 2000-2001 インテルナツィオナーレ・ミラノ
- 2002-2003 ASバーリ
- 2004 エジプト代表
- 2005-2008 ACアレッツォ
- 2009-2013 アイルランド代表 (アシスタントコーチ)
脚注
[編集]- ^ “Marco Tardelli - International Appearances” (英語). The Rec.Sport.Soccer Statistics Foundation
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac “Marco Tardelli, da 'Schizzo' a tuttocampista e icona del Mundial '82”. GOAL (2022年9月24日). 2023年8月10日閲覧。
- ^ “Top Facts About Marco Tardelli, Italy's Greatest Midfielder”. SPORTSMOB (2021年5月9日). 2023年8月10日閲覧。
- ^ a b “Tardelli National team”. www.transfermarket. 25 January 2021閲覧。
外部リンク
[編集]- Tardelli: I was born with that scream - FIFA.com