コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

アルド・セレーナ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アルド・セレーナ
名前
ラテン文字 Aldo Serena
基本情報
国籍 イタリアの旗 イタリア
生年月日 (1960-06-25) 1960年6月25日(64歳)
出身地 モンテベッルーナ
身長 183cm
体重 72kg
選手情報
ポジション FW
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1977-1978 イタリアの旗 モンテベッルーナ 29 (9)
1978-1985 イタリアの旗 インテル・ミラノ 51 (11)
1979-1980 イタリアの旗 コモ (loan) 18 (2)
1980-1981 イタリアの旗 バーリ (loan) 35 (10)
1982-1983 イタリアの旗 ACミラン (loan) 20 (8)
1984-1985 イタリアの旗 トリノ (loan) 29 (9)
1985-1987 イタリアの旗 ユヴェントス 51 (21)
1987-1991 イタリアの旗 インテル・ミラノ 114 (45)
1991-1993 イタリアの旗 ACミラン 10 (0)
代表歴
1984-1990 イタリアの旗 イタリア 24 (5)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

アルド・セレーナ(Aldo Serena, 1960年6月25日 - )は、イタリア出身の元同国代表の元サッカー選手。ポジションはフォワード。1980年代、特に子供たちからの人気を集めていた[1]

クラブ経歴

[編集]

父親は元サッカー選手で、製革業者をしていた[1]。それまではバスケットボールをしていたが、11歳でサッカーを始めた[1]。モンテベッルーナのユースチームにはMFとして入団、多くの得点を決めていた[1]。1977-78シーズンにトップチームへと合流した[1]

1978年、コモインテルが共同で保有する形で、インテルに移籍し、プリマベーラでプレーした[1]。1978年9月27日、UEFAカップウィナーズカップフロリアーナ戦で公式戦デビュー[1]。11月19日のSSラツィオ戦、レギュラーのアルトべッリら数人が出場出来ない状態であったことから、先発起用され、ゴールを決めるセリエAデビューを飾った[1]。このシーズンは、公式戦4試合に出場したが、翌年はコモへとレンタル移籍、1980-81シーズンはバーリへとレンタル移籍した[1]

1981-82シーズン、ようやくインテルに複帰、リーグ戦21試合で2得点に終わるが、コッパ・イタリア決勝の第1戦では、トリノから決勝点を奪って優勝に貢献、初タイトルを獲得した[1]。1982-83シーズンは、当時セリエBに落ちていたACミランへと貸し出され、このシーズンの公式戦では、29試合で14得点と結果を残し、翌1983-84シーズン、インテルへと複帰したが、1984-85シーズンはトリノへと貸し出され、29試合で9得点と活躍し、イタリア代表にも召集された[1]

1985-86シーズン、インテルからレンタルされる形で[2]、ユベントスでプレー。移籍初年度、リーグ開幕節のアヴェッリーノ戦で得点を奪うと、開幕戦から8試合で6ゴールを決めるなど、このシーズンの公式戦35試合で20得点を決める活躍を見せた[1]。チームは、トヨタカップとリーグを制した。翌シーズンも公式戦36試合で16得点と活躍を続けた[1]

1987-88シーズン、インテルに複帰した。1988-89シーズンには、ラモン・ディアスが加入すると、ディアスとはプレーの相性が良く、優れた連携を見せ、ツートップでゴールを量産[3]、リーグ戦では22得点をあげ、セリエAの得点王を獲得すると共に、インテルの13回目となるリーグ制覇に貢献[1][4]。1988年12月11日のミラノダービーでは決勝点を奪い、優勝を争っていたライバルからの勝利に貢献した[1]。1989-90シーズン、3月18日のミラノダービーでは、2得点更にPKを奪う活躍を見せた。1990-91シーズンにはUEFAカップ優勝にも貢献した[5]。1990-91シーズン限りでチームを離れた。

1991-92シーズン、ACミランに移籍、怪我などで出場は、2シーズン合計で17試合と限定されたが、2期連続でリーグ優勝を果たした[6]。1992-93シーズン終了後フリーとなる。まだミラン所属時にJリーグ開幕前のヴェルディ川崎からオファーを受けるも高額な移籍金が生じるため移籍には至らなかったが[7]。親交のあったアレイニコフからJリーグに関する様々な情報を聞くなど、Jリーグのチームへの加入に前向きであり、1993年秋にはJリーグのチームと入団交渉のため日本を訪れた[7]。しかしJリーグへの参加は実現せずそのまま引退に至った。

代表経歴

[編集]

イタリア代表としては24試合に出場し5得点を記録した[8]

1984年12月のポーランド戦で代表デビュー、1986年2月5日、西ドイツ戦で代表初得点を記録した。ワールドカップ・メキシコ大会では代表に選ばれたが出場はなかった。

1990年のワールドカップ・イタリア大会では、3試合に出場。決勝トーナメント1回戦のウルグアイ戦では交代出場から1得点1アシストを決めて勝利した。準決勝のアルゼンチン戦ではPK戦の5人目のキッカーとして登場したが、これを失敗してイタリアはアルゼンチンに敗戦した。

その他、1984年のロス五輪に出場し、グループリーグ初戦のエジプト戦で1得点を決めた[9]。チームは3位決定戦でユーゴスラヴィアに敗れ、メダル獲得はならなかった。

プレースタイル

[編集]

献身的にハードワークを惜しまず、フィジカルが強く、空中戦に強く、高さを生かしたヘディングを得意としたセンターフォワードであった。また正確で強烈な左足のシュートを武器に得点を重ねた[10][11][12][13][14][15]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o Aldo Serena, il bomber di Montebelluna: uomo dei derby e specialista dei colpi di testa”. GOAL (2023年1月25日). 2023年8月9日閲覧。
  2. ^ トヨタカップ 1985 公式パンフレット ユベントス VS アルゼンチノス P.27
  3. ^ Ramón Angel Díaz, 'El puntero triste': bomber implacabile e allenatore di successo”. GOAL (2022年3月25日). 2023年7月29日閲覧。
  4. ^ Happy Birthday to Aldo Serena, who turns 55 today!”. vivoazzurro.it (25 June 2015). 20 December 2016閲覧。
  5. ^ Serena, Aldo” (Italian). Treccani: Enciclopedia dello Sport (2002). 20 December 2016閲覧。
  6. ^ Serena, Aldo” (Italian). Treccani: Enciclopedia dello Sport (2002). 20 December 2016閲覧。
  7. ^ a b ワールドサッカーグラフィック 1993年11月号 22-23ページ
  8. ^ Happy Birthday to Aldo Serena, who turns 55 today!”. vivoazzurro.it (25 June 2015). 20 December 2016閲覧。
  9. ^ ALDO SERENA Italy Olympic Team”. Transfermarkt. 2023年8月9日閲覧。
  10. ^ Gli eroi in bianconero: Aldo SERENA” (Italian). Tutto Juve (25 June 2013). 15 July 2016閲覧。
  11. ^ Aldo Serena” (Italian). magliarossonera.it. 20 December 2016閲覧。
  12. ^ Aldo SERENA” (Italian). Il Pallone Racconta. 12 November 2014閲覧。
  13. ^ 7,5 A BERTI (ESCLUSO IL LOOK)” (Italian). La Repubblica (30 May 1989). 20 November 2016閲覧。
  14. ^ Serena e l'Inter dei record "Potevamo aprire un ciclo"” (Italian). La Gazzetta dello Sport (4 March 2008). 20 December 2016閲覧。
  15. ^ 'CAMBIAMO MODULO SERENA GIOCHERA' NEL RUOLO DI BETTEGA'” (Italian). La Repubblica (24 July 1985). 20 December 2016閲覧。

外部リンク

[編集]