リチャード・ヒーリー=ハッチンソン (第4代ドナウモア伯爵)
第4代ドナウモア伯爵リチャード・ジョン・ヒーリー=ハッチンソン(英語: Richard John Hely-Hutchinson, 4th Earl of Donoughmore PC FRS、1823年4月4日 – 1866年2月22日)は、イギリスの貴族、政治家。支払長官(在任:1858年 – 1859年[1])、商務庁副長官(在任:1858年 – 1859年)、商務庁長官(在任:1859年)を歴任した[2]。1832年から1851年までシュアデール子爵の儀礼称号を使用した[2]。
生涯
[編集]第3代ドナウモア伯爵ジョン・ヒーリー=ハッチンソンと1人目の妻マーガレット(Margaret、旧姓ガーディナー(Gardiner)、1796年2月4日 – 1825年10月13日、初代マウントジョイ子爵ルーク・ガーディナーの娘)の息子として、1823年4月4日にダブリンで生まれ、ハーロー校で教育を受けた[2]。
1843年3月17日にエンサイン(歩兵少尉)としてイギリス陸軍に入隊したが[3]、1845年1月には退役した[4]。
1851年9月14日に父が死去すると、ドナウモア伯爵位を継承した[2]。
保守党内閣である第2次ダービー伯爵内閣期の1858年4月6日に枢密顧問官および商務庁副長官に任命され[5]、1859年2月に商務庁長官に昇進したあと、同年6月まで務めた[2]。
1849年7月24日に中佐としてサウス・ティペラリー砲兵民兵隊(South Tipperary Artillery Militia)に編入され[6]、1858年7月に指揮権を与えられた[7]。
1866年2月22日にメイフェアのサウス・オードリー・ストリート52号で死去、3月2日にノックロフティ(Knocklofty)で埋葬された[2]。長男ジョン・ルーク・ジョージが爵位を継承した[2]。
家族
[編集]1847年4月7日、トマジン・ジョスリン・スティール(Thomasine Jocelyn Steele、1890年5月7日没、ウォルター・スティールの娘)と結婚[2]、5男2女をもうけた[9]。
- ジョン・ルーク・ジョージ(1848年3月2日 – 1900年12月5日) - 第5代ドナウモア伯爵[2]
- ウォルター・フランシス(1849年8月22日 – 1913年9月23日) - 外交官、植民地総督。1881年2月19日、にメイ・ジャスティス(1861年 – 1938年11月15日、ウィリアム・クライヴ・ジャスティスの娘)と結婚、子供あり[10]
- 男子(1851年1月18日) - 夭折[9]
- メアリー・ソフィア(1853年9月22日[9] – 1936年7月30日) - 1879年8月14日、ルイス・ヴィヴィアン・ロイド(1908年9月21日没)と結婚、子供あり[10]
- パトリック・モーリス(1855年4月27日 – 1893年1月27日) - 海軍軍人、生涯未婚[10]
- マーガレット・フランシス(1857年2月8日[9] – 1937年3月2日) - 1882年7月6日、ダグラス・ジェームズ・プロビー(Douglas James Proby、1931年3月18日没)と結婚、子供あり[10]
- グランヴィル・ウィリアム(1858年9月24日 – 1906年6月11日) - 1891年7月14日、グレース・チャータース(Grace Charters、1893年1月26日没、ジョン・チャータースの未亡人、クレメント・ハイアムの娘)と結婚。1903年11月7日、イリナ・ビアトリス・リチャーズ(Eleanor Beatrice Richards、1928年3月25日没、H・マンニング・リチャーズの娘)と再婚、子供なし[10]
出典
[編集]- ^ Gater, G H; Wheeler, E P, eds. (1935). "Office of the Paymaster-General". Survey of London: Volume 16, St Martin-in-The-Fields I: Charing Cross (英語). Vol. 16. London: London County Council. pp. 17–27. British History Onlineより2023年2月16日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, H. Arthur, eds. (1916). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Dacre to Dysart) (英語). Vol. 4 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 404–405.
- ^ "No. 20205". The London Gazette (英語). 17 March 1843. p. 903.
- ^ "No. 20435". The London Gazette (英語). 24 January 1845. p. 209.
- ^ "No. 22125". The London Gazette (英語). 9 April 1858. pp. 1792–1793.
- ^ "No. 6483". The Edinburgh Gazette (英語). 13 April 1855. p. 432.
- ^ "No. 6830". The Edinburgh Gazette (英語). 10 August 1858. p. 1504.
- ^ "Hutchinson; Richard John Hely (1823 - 1866); 4th Earl of Donoughmore". Record (英語). The Royal Society. 2023年2月16日閲覧。
- ^ a b c d Lodge, Edmund (1901). The Peerage and Baronetage of the British Empire as at Present Existing (英語) (70th ed.). London: Hurst and Blackett. p. 230.
- ^ a b c d e Townend, Peter, ed. (1963). Burke's Genealogical and Heraldic History of the Peerage, Baronetage and Knightage (英語). Vol. 2 (103rd ed.). London: Burke's Peerage Limited. pp. 746–747.
外部リンク
[編集]- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Mr Richard Hutchinson
- "リチャード・ヒーリー=ハッチンソンの関連資料一覧" (英語). イギリス国立公文書館.
公職 | ||
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先代 ロバート・ロウ |
支払長官 1858年 – 1859年 |
次代 ロヴェイン卿 |
商務庁副長官 1858年 – 1859年 | ||
先代 J・W・ヘンリー |
商務庁長官 1859年 |
次代 トマス・ミルナー・ギブソン |
アイルランドの爵位 | ||
先代 ジョン・ヒーリー=ハッチンソン |
ドナウモア伯爵 1851年 – 1866年 |
次代 ジョン・ヒーリー=ハッチンソン |