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ルイ=フレデリック・シュッツェンベルジェ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ルイ=フレデリック・シュッツェンベルジェ
Louis Frédéric Schützenberger
生誕 (1825-09-08) 1825年9月8日
ストラスブール
死没 1903年4月17日(1903-04-17)(77歳没)
ストラスブール
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ルイ=フレデリック・シュッツェンベルジェ(Louis Frédéric Schützenberger、1825年9月8日 - 1903年4月17日)は、フランスアカデミック美術の画家である。

略歴

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ストラスブールの醸造業を営む家の息子に生まれた。狩猟の帰りに父親の邸をしばしば訪れる客の獲物の動物を、8歳のころのシュッツェンベルジェがチョークで床やテーブルに描いて遊んでいた。客の中のゲラン(Gabriel-Christophe Guérin)という画家がそれを見て、父親に絵を学ばせるのを勧め、ゲランの弟子になり絵を学び始めた。

1842年にゲランの勧めでパリに出て、歴史画家のポール・ドラローシュの工房で学び、1643年にドラローシュがイタリアに移った後は、パリ国立高等美術学校シャルル・グレールのもとで学んだ。パリではジャン=レオン・ジェローム(1824-1904)やギュスターヴ・ブリオン(Gustave Brion: 1824-1877)、フレデリック・リックス(1830-1897)、ジャン=ルイ・アモン(1821-1874)、オーギュスト・トゥールムーシュ(1829-1890)らと同時期に修行時代をすごした。

1848年に美術学校で賞を得て、1850年にパリのサロンで初展示し、3等のメダルを受賞した[1]。1852年にサロンに歴史画を出展し、メダルを受賞した。シュッツェンベルジェの「Danse grecque」という作品は国に買い上げられ、リュクサンブール美術館に収蔵された[2]

1861年にローマへ旅し、1年以上滞在した。 パリに戻り、1862年に工房を開き数年間、パリで活動した後、パリを離れストラスブールに戻った。バ=ラン県のScharrachbergheim-Irmstettに1870年から1885年の間 所有した邸にスタジオを設けて[3]、肖像画や風俗画、風景画を描いた。

1870年にレジオンドヌール勲章(シュバリエ)を受勲した[2]

1903年にストラスブールで77歳で亡くなった。

いとこのルネ・シュッツェンベルジェ(1860-1916)も画家になった。

作品

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脚注

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  1. ^ Archives nationales.
  2. ^ a b Le Messager des Vosges illustré, revue littéraire et scientifique, vol. 1-2, 1903, p. 74-75.
  3. ^ « Scharrachbergheim Irmstett », sur cc-porteduvignoble.fr.

参考文献

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  • « Louis Frédéric Schützenberger », in : Biographies alsaciennes avec portraits en photographie (en ligne sur Gallica [archive]). Document utilisé pour la rédaction de l’article
  • Dictionnaire Bénézit.
  • Raymond Oberlé, « Louis Frédéric Schützenberger », in : Nouveau dictionnaire de biographie alsacienne, vol. 34, p. 3564.
  • Frédéric Heyler, Discours prononcé à l’enterrement de M. Louis Schuetzenberger, artiste peintre, à l’église de Saint-Nicolas à Strasbourg, le 19 avril 1903, Strasbourg, Imprimerie Alsacienne, 1903, 16 p.
  • Anselme Laugel, Biographies alsaciennes : Louis Schuetzenberger, Édition de la Revue alsacienne illustrée, 1902 [?], 28 p.