ルキウス・アエミリウス・パウッルス (紀元前50年の執政官)
ルキウス・アエミリウス・(レピドゥス)・パウッルス L. Aemilius M. f. Q. n. Lepidus Paullus[1] | |
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パウッルスが鋳造したコイン。Paullus Lepidus Concordiaの文字がみえる | |
出生 | 不明 |
死没 | 不明 |
死没地 | ミレトス |
出身階級 | パトリキ |
氏族 | アエミリウス氏族 |
官職 |
造幣官(紀元前62年) 財務官(紀元前59年) 上級按察官(紀元前55年) 法務官(紀元前53年) 執政官(紀元前50年) |
ルキウス・アエミリウス・パウッルスまたはルキウス・アエミリウス・レピドゥス・パウッルス(ラテン語: Lucius Aemilius (Lepidus) Paullus、生没年不明)は紀元前1世紀中期の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前50年に執政官(コンスル)を務めた。
出自
[編集]レピドゥス・パウッルスは古いパトリキ(貴族)であるアエミリウス氏族[2] の出身である。レピドゥス家も紀元前285年のマルクス・アエミリウス・レピドゥス 以来、多くの執政官を輩出してきた[3]。
パウッルスの父は、紀元前78年に執政官を務めたマルクス・アエミリウス・レピドゥスである。祖父のプラエノーメン(第一名、個人名)はクィントゥス、曽祖父はマルクスであるが、名前以外は不明である。歴史学者V. ドルマンは、曽祖父マルクスは紀元前189年にマグネシアの戦いにトリブヌス・ミリトゥム(高級士官)として参加した人物と考えている[4]。一方で、キケロが『第13ピリッピカ』で述べているように[5]、紀元前187年と紀元前175年の執政官マルクス・アエミリウス・レピドゥス が曽祖父と考える歴史学者も多い[6][7][8]。
パウッルスの母はアップレイウス氏族の出身であった[9]。二人にはさらに二人の息子、マルクス・アエミリウス・レピドゥス(第二回三頭政治の一頭)と紀元前83年にスキピオ家に養子に入ったルキウス・コルネリウス・スキピオ・アシアティクス・アエミリアヌスがいた[4]。アエミリアヌスは紀元前77年に若くして死去している[10][11]。
経歴
[編集]パウッルスが現存資料に登場するのは紀元前63年である。ルキウス・セルギウス・カティリナの反乱の噂が流れ、パウッルスはカティリナを暴力的行為の罪で告訴している[12]。カティリナ本人はローマから脱出し、その後戦死したために、この裁判は行われることがなかった[13]。翌年、パウッルスは造幣官を務め、表にコンコルディア女神、裏に降伏したマケドニア王ペルセウスとその息子2人を刻んだデナリウス銀貨を鋳造している。これはカティリナに対する勝利の記念(コンコルディア神殿で行われた元老院会議で、カティリナの共謀者の処刑が決定されている)と、彼の先祖の功を称えるものであった[14]。
クルスス・ホノルム(名誉のコース)の第一歩であるクァエストル(財務官)には紀元前59年に就任した[15]。マケドニア属州総督ガイウス・オクタウィスス(アウグストゥスの実父)の下で勤務している。このときローマではルキウス・ウェッティスという人物が、ポンペイウス暗殺計画があると触れ回った。共謀者には経験豊富な政治家であるマルクス・カルプルニウス・ビブルス、ルキウス・リキニウス・ルクッルス、ルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス、さらにはこのときはまだ若かったガイウス・スクリボニウス・クリオ、マルクス・ユニウス・ブルトゥス、プブリウス・コルネリウス・レントゥルス・スピンテル、さらにはパウッルスが含まれるとした。しかし誰もこの話を信じず、ウェッティスは牢獄で死亡した[13][16][17]。
紀元前57年、追放されていたキケロのローマ帰還を認める法案が提出されるが、パウッルスも賛成している[18]。紀元前56年には、暴動を組織したとして告発されたプブリウス・セスティウスの裁判に出廷し、被告側証人プブリウス・ウァティニウスを告訴する意向を表明した[19]。その後も順調に出世し、紀元前55年にはアエディリス・クルリス(上級按察官)に就任した[20]。この職権で、先祖のマルクス・アエミリウス・レピドゥス (紀元前187年執政官)が建てたフォルムのバシリカ・アエミリアの再建に着手した[21]。紀元前53年にはプラエトル(法務官)に就任する[22]。
紀元前50年、プレブス(平民)のガイウス・クラウディウス・マルケッルス・ミノルと共に、執政官に就任[23]。このときローマでは、ポンペイウスが主導するオプティマテス(門閥派)とカエサル派との対立が激化していた。パウッルスの立場は反カエサルと考えられていたが、執政官当選後にカエサルから1,500タレント という莫大な賄賂を受け取り、中立に転じていた。この金はバシリカ再建に使われた[24]。
翌年に勃発したカエサルとポンペイウスの内戦では、パウッルスが重要な役割を果たすことはなかった。紀元前44年にカエサルが暗殺され、パウッルスは再び表舞台に登場する。ムティノ戦争(マルクス・アントニウス対元老院派)、元老院はパウッルスを含む3名の特使をマッシリアのセクストゥス・ポンペイウスに派遣した[25]。後にパウッルスは、カエサル派の指導者の一人である実兄マルクスを「祖国の敵」として認めることに賛成した。しかし紀元前43年の秋には、実兄マルクス、アントニウス、オクタウィアヌスで第二回三頭政治が結成される。三頭政治側はローマを占領し、敵対者のリストを作成した。アッピアノスは、「最初に死刑リストを発表したのはマルクス・レピドゥスで、その第一番目がパウッルスであった」と書いている[26]。しかしパウッルスはローマを脱出し(実際には兄が秘密裏に支援したと思われる)、アシア属州へと逃げた[27][28]。
その後パウッルスはミレトスに落ち着いた。解放者の内戦(第二回三頭政治体制派対カエサルの暗殺者)が終わると、三頭政治側はローマへの帰還を申し出たが、パウッルスは断った[29]。その後のパウッルスに関する記録はない[28]。
子孫
[編集]パウッルスにはパウッルス・アエミリウス・レピドゥスと名乗った息子がおり、紀元前34年に補充執政官となっている。その息子二人も執政官を務め、うちルキウス(西暦元年執政官)はアウグストゥスの孫娘と結婚している[30]。
脚注
[編集]- ^ Broughton, 1952, p. 247.
- ^ プルタルコス『対比列伝:アエミリウス・パウッルス』、2.
- ^ Tsirkin, 2009 , p. 226.
- ^ a b Drumann V. Emilia (Lepids)
- ^ キケロが『ピリッピカ』、XIII, 15.
- ^ Sumner 1973, p. 66.
- ^ Münzer, 1920, s. 282.
- ^ Settipani 2000, p. 65.
- ^ Appuleius 32, 1895 , s. 269.
- ^ オロシウス『異教徒に反論する歴史』、V, 22, 17.
- ^ Aemilius 72, 1893, s. 556.
- ^ サッルスティウス『カティリーナの陰謀』、31, 4.
- ^ a b Aemilius 81, 1893, s. 564.
- ^ Ryazanov , For pacifying the rebellion.
- ^ Broughton, 1952, p. 190.
- ^ Egorov, 2014 , p. 152-153.
- ^ Rossi, 1951, p. 248-250.
- ^ キケロ『友人宛書簡集』、XV, 13.
- ^ キケロ『弟クィントゥス宛書簡集』、II, 4.
- ^ Broughton, 1952 , p. 216.
- ^ キケロ『アッティクス宛書簡集』、IV, 16, 8.
- ^ Broughton, 1952 , p. 228.
- ^ Broughton, 1952 , p. 247.
- ^ Aemilius 81, 1893, s. 564-565.
- ^ キケロ『ピリッピカ』、XIII, 13.
- ^ アッピアノス『ローマ史:内戦』、Book IV, 12.
- ^ カッシウス・ディオ『ローマ史』、XLVII, 8, 1.
- ^ a b Aemilius 81, 1893, s. 565.
- ^ アッピアノス『ローマ史:内戦』、 Book IV, 37.
- ^ R. Syme. Emilia Lepida
参考資料
[編集]古代の資料
[編集]- アッピアノス『ローマ史』
- カッシウス・ディオ『ローマ史』
- オロシウス『異教徒に反論する歴史』
- プルタルコス『対比列伝』
- ガイウス・サッルスティウス・クリスプス『カティリーナの陰謀』
- マルクス・トゥッリウス・キケロ『ピリッピカ』
- マルクス・トゥッリウス・キケロ『アッティクス宛書簡集』
- マルクス・トゥッリウス・キケロ『弟クィントゥス宛書簡集』
研究書
[編集]- Egorov A. Julius Caesar. Political biography. - SPb. : Nestor-History, 2014 .-- 548 p. - ISBN 978-5-4469-0389-4 .
- Rossi F. The Vettia Conspiracy // Annali Triestini. - 1951. - No. 21 . - S. 247-260 .
- Ryazanov V. Coins and Monetary of the Roman Republic. Retrieved December 14, 2016.
- Tsirkin Yu. Lepidus Uprising // Antique World and Archeology. - 2009. - No. 13. - S. 225-241.
- Broughton R. Magistrates of the Roman Republic. - New York, 1952. - Vol. II. - P. 558.
- Klebs E. Aemilius 72 // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft . - Stuttg. : JB Metzler, 1893. - Bd. I, 1. - Kol. 556-561.
- Klebs E. Aemilius 81 // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft . - Stuttg. : JB Metzler, 1893. - Bd. I, 1. - Kol. 564-565.
- Klebs E. Appuleius 32 // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft . - Stuttg. : JB Metzler, 1895. - Bd. II, 1. - Kol. 269.
- Münzer F. Römische Adelsparteien und Adelsfamilien. - Stuttgart, 1920. - P. 437.
- Settipani C. Continuité gentilice et continuité sénatoriale dans les familles sénatoriales romaines à l'époque impériale. - Oxford, 2000 .-- 597 p. - ISBN 1-900934-02-7 .
- Sumner G. Orators in Cicero's Brutus: prosopography and chronology. - Toronto: University of Toronto Press, 1973 .-- 197 p. - ISBN 9780802052810.
- Syme R. The Augustan Aristocracy. Oxford University Press, 1986.
関連項目
[編集]公職 | ||
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先代 マルクス・クラウディウス・マルケッルス セルウィウス・スルピキウス・ルフス |
執政官 同僚:ガイウス・クラウディウス・マルケッルス・ミノル 紀元前50年 |
次代 ガイウス・クラウディウス・マルケッルス・マヨル ルキウス・コルネリウス・レントゥルス・クルス |