ロシア (装甲巡洋艦)
サンクトペテルブルクのBaltic Worksで建造[1]。 1893年10月(ユリウス暦)建造開始[1]。1895年6月1日(グレゴリオ暦)[1]。1896年5月12日(グレゴリオ暦)進水[1]。完成させるためクロンシュタットへ回航される途中に「ロシア」は座礁し、離礁まで1か月要した[2]。
1897年6月9日(グレゴリオ暦)、スピットヘッドで開催されたヴィクトリア女王のダイヤモンド・ジュビリー観艦式に参加[2]。
「ロシア」は1897年10月に極東へ向け出発し、1898年3月10日(グレゴリオ暦、以下同じ)に長崎に着いた[2]。
日露戦争勃発時はウラジオストク巡洋艦隊に属していた[3]。1904年2月9日に開戦すると、同日中に装甲巡洋艦「ロシア」、「グロモボーイ」、「リューリク」、防護巡洋艦「ボガツイリ」はウラジオストクから出撃し、11日に青森県の艫作崎付近で商船「奈古浦丸」を撃沈、「全勝丸」を損傷させて2月14日にウラジオストクに帰投した[4]。
4月23日、「ロシア」、「グロモボーイ」、「リューリク」、「ボガツイリ」と水雷艇2隻はウラジオストクから出撃したが、「リューリク」は速度が遅いため帰投させられた[5]。残りは元山へ向かい、25日に水雷艇が元山港内で「五洋丸」を撃沈[6]。次いで同日、「萩ノ浦丸」または「荻の浦丸」を沈めた[7]。26日、艦隊は日本の海軍運送船「金州丸」を沈めた[8]。4月29日、ウラジオストクに帰投[9]。
6月12日ないし13日、「ロシア」、「グロモボーイ」、「リューリク」はウラジオストクより出撃して朝鮮海峡へ向かう[10]。6月15日、「グロモボーイ」が日本の陸軍輸送船「和泉丸」を撃沈[11]。次いでウラジオストク艦隊は陸軍輸送船「常陸丸」を沈め、同「佐渡丸」を損傷させた[12]。ウラジオストク艦隊は6月16日にはイギリス船「アラントン」を拿捕し、「第九運砿丸」を停船させて同船に「和泉丸」の捕虜を移した[13]。「アラントン」は「ロシア」乗員によってウラジオストクへ回航された[14]。6月18日、「ロシア」は「巴港丸」を停船させ函館の日本艦艇について尋問したが、「巴港丸」船長が知らないと応じると釈放した[14]。6月19日、または20日にウラジオストク艦隊はウラジオストクに帰投した[15]。
6月28日、「ロシア」、「グロモボーイ」、「リューリク」と仮装巡洋艦「レナ」、水雷艇8隻は出撃する[16]。6月30日に水雷艇が元山を襲撃し、その後「レナ」と水雷艇は帰投した[16]。朝鮮海峡へ向かった巡洋艦3隻は7月1日に日本の第二戦隊と遭遇し、逃走した[17]。この後ウラジオストク艦隊は7月2日にイギリス船「チェルテンハム」を拿捕し、7月3日にウラジオストクに戻った[18]。
7月17日、「ロシア」、「グロモボーイ」、「リューリク」はウラジオストクより出撃[19]。20日に津軽海峡を通過して、汽船「高島丸」、帆船「喜宝丸」、「第二北生丸」を沈め、「共同運輸丸」とイギリス船「サマーラ」を臨検した[20]。南下した艦隊は22日にドイツ船「アラビア」を拿捕し、24日にはイギリス船「ナイト・コマンダー」と帆船「自在丸」、「福就丸」を沈め、イギリス船「図南」を臨検した[21]。25日、艦隊はドイツ船「テア」を沈め、イギリス船「カルカス」を拿捕した[22]。その後艦隊は帰途に就き、再び津軽海峡を通って8月1日にウラジオストクに帰投した[23]。
8月14日、「ロシア」、「グロモボーイ」、「リューリク」は蔚山沖海戦で日本の第二戦隊(出雲、常磐、吾妻、磐手)と交戦した[24]。まず殿の「リューリク」が大損害を受けて遅れ、同艦を救助しようとそちらに接近した「ロシア」と「グロモボーイ」も損害を受けた[25]。「ロシア」では甲板上で敵弾が炸裂し、弾薬に引火して大火災が発生[26]。ボイラー3基が破損し、先任士官ベリンスキー中佐が戦死した[26]。火災は20分で鎮火したが、その後も「リューリク」救援を試みている際に再び「ロシア」では火災が発生した[27]。最終的に日本の巡洋艦「浪速」、「高千穂」が近づいてくると「ロシア」と「グロモボーイ」は「リューリク」救援を断念して逃走[28]。第二戦隊の追撃を受けて両艦はさらに損害を受けたが、日本側が追撃を止めたため戦闘は終了した[29]。海戦での「ロシア」の人的被害は死者48名負傷者165名であった[2]。
戦後の1906年4月8日に「ロシア」はクロンシュタットに戻った[2]。1911年6月24日、ジョージ5世戴冠記念観艦式に参加[2]。1913年3月、コペンハーゲンを訪問[2]。また練習航海で1912年にはカナリア諸島やヴァージン諸島へ向かい、1913年にはアゾレス諸島を訪れている[2]。
第一次世界大戦時は「ロシア」はバルト艦隊の第2巡洋艦旅団旗艦であった[2]。
「ロシア」は1922年にドイツの会社に売却され、その後解体された[2]。
- 排水量:計画12130トン、実測12195トン[30]
- 長さ:全長485フィート、垂線間長461.3フィート、水線長473.1フィート[30]
- 幅:最大68.6フィート[30]
- 吃水:26.2フィート
- 機関:ベルヴィル式水管缶32基、直立三段膨張機関2基+巡航用直立三段膨張機関1基、計3軸、出力14500IHP、2500IHP(巡航用)[31]
- 速力:計画19ノット、公試19.74ノット[30]
- 航続距離:10ノットで7740浬[30]
- 装甲:ハーヴェイ鋼、装甲帯5から8インチ、司令塔12インチ、甲板2インチ[32]
- 兵装:40口径8インチ砲4門、45口径6インチ砲16門、50口径70mm砲12門、43口径47mm砲20門、23口径37mm砲18門、15インチ魚雷発射管5門[30]
- 乗員:839名[30]
蔚山沖海戦後、6インチ砲6門が追加された[33]。1915年10月、8インチ砲4門が追加され、6インチ砲は14門に減らされた[33]。
脚注
[編集]- ^ a b c d Stephen McLaughlin, "From Riurik to Riurik: Russia's Armoured Cruisers", p. 73
- ^ a b c d e f g h i j Stephen McLaughlin, "From Riurik to Riurik: Russia's Armoured Cruisers", p. 77
- ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』198ページ
- ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』199ページ
- ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』201ページ。外山三郎『日露海戦史の研究 下』112-113ページ
- ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』201ページ
- ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』201ページ。外山三郎『日露海戦史の研究 下』113ページ
- ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』201ページ。『日本郵船株式会社五十年史』210-211ページ
- ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』203ページ
- ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』203ページ。外山三郎『日露海戦史の研究 下』113ページ
- ^ 外山三郎『日露海戦史の研究 下』113ページ
- ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』204ページ。外山三郎『日露海戦史の研究 下』113ページ
- ^ 外山三郎『日露海戦史の研究 下』114ページ
- ^ a b 石川一郎「二度も撃沈された悲運の常陸丸(その4)」821ページ
- ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』205ページ。外山三郎『日露海戦史の研究 下』114ページ
- ^ a b 真鍋重忠『日露旅順海戦史』207ページ
- ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』207-208ページ
- ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』209ページ
- ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』209ページ
- ^ 外山三郎『日露海戦史の研究 下』121ページ
- ^ 外山三郎『日露海戦史の研究 下』121-122ページ
- ^ 外山三郎『日露海戦史の研究 下』122ページ
- ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』210-211ページ
- ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』213-217ページ
- ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』214-215ページ
- ^ a b 真鍋重忠『日露旅順海戦史』213ページ
- ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』215-216ページ
- ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』216-217ページ
- ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』217ページ
- ^ a b c d e f g Stephen McLaughlin, "From Riurik to Riurik: Russia's Armoured Cruisers", p. 74
- ^ Stephen McLaughlin, "From Riurik to Riurik: Russia's Armoured Cruisers", pp. 51, 74
- ^ Stephen McLaughlin, "From Riurik to Riurik: Russia's Armoured Cruisers", pp. 54, 74
- ^ a b Stephen McLaughlin, "From Riurik to Riurik: Russia's Armoured Cruisers", p. 54
参考文献
[編集]- 真鍋重忠『日露旅順海戦史』吉川弘文館、1985年、ISBN 4-642-07251-9
- 外山三郎『日露海戦史の研究 下 戦記的考察を中心として』教育出版センター、1985年、ISBN 4-7632-1922-7
- 石川一郎「二度も撃沈された悲運の常陸丸(その4)」Techno marine 日本造船学会誌 857 巻 (2000)、819-826ページ
- 日本郵船株式会社(編)『日本郵船株式会社五十年史』日本郵船、1935年
- Stephen McLaughlin, "From Riurik to Riurik: Russia's Armoured Cruisers", Warship 1999-2000, Conway Maritime Press, 1999, ISBN 0-85177-724-4, pp. 44-79