ローザ・アボット
ローザ・アボット | |
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ローザ・アボット(1912年から1913年の間) | |
生誕 |
1873年1月14日 イングランド・バッキンガムシャー・アイルズベリー |
死没 |
1946年2月18日(73歳没) イングランド・ロンドン |
職業 | 裁縫師 |
配偶者 | スタントン・アボット(1895-1911、離婚)、ジョージ・ウィリアムス(1912-1938、死別) |
子供 | ロスモア、ユージン |
ローザ・アボット(Rhoda Mary 'Rosa' Abbott、1873年1月14日 - 1946年2月18日)は、タイタニック号の乗客である[1][2]。彼女は2人の息子とともにタイタニック号に乗船して、アメリカ合衆国を目指していた。3人は事故に巻き込まれて海に転落したが、ローザのみが救命ボートに救われて生き延びることができた[2]。タイタニック号の事故で海に転落し、その後生還を果たした乗員乗客の中で唯一の女性として知られる[1][2][3][4][5]。
生涯
[編集]前半生
[編集]結婚前の姓はハント(Hunt)といい、1873年にイングランドのバッキンガムシャー・アイルズベリーで生まれた[4]。アイルズベリーで成長し、後に家族とともにハートフォードシャーのセント・オールバンズに転居した。1894年にアメリカ合衆国に移民し、ロードアイランド州プロビデンスに落ち着いた[4]。
1895年には、ロンドン生まれのスタントン・アボット(1867年6月23日 - 1941年4月23日)と結婚した[4] [6]。スタントンはボクサーで、後にミドル級チャンピオンになるほど強い選手であった[4][7]。2人の間には、ロスモア(1896年2月21日生)とユージン(1899年3月31日生)という息子が生まれた[注釈 1][4][8][9]。ローザは満ち足りた家庭生活を送り、地元のグレースエピスコバル教会でも積極的かつ献身的に奉仕した[4]。
やがてスタントンのボクサーとしての成功が、ローザの幸福に影を落とした[4]。夫婦仲は修復不能なほど悪化し、1911年に別れることとなった[4]。ローザは息子たちを伴ってホワイト・スター・ラインの客船オリンピック号でイギリスに戻り、裁縫師として働くとともに救世軍の兵士(一般信徒)としても活動した[1][4]。ただし、ローザは息子たちにとってイギリスでの暮らしが幸せなものではなかったことに気づいて、1912年4月にアメリカ合衆国行きの船を予約した[1][4]。その船とは、タイタニック号であった[1][4]。
タイタニック号
[編集]ローザと息子たちは、4月10日にサザンプトン港からタイタニック号の3等船室に乗船した[1][4]。船上でローザは、近くの船室にいるエイミー・スタンレー、エミリー・ゴールドスミス、メイ・ハワードと親しくなった[注釈 2][4]。
4月14日の深夜、乗客たちがすでに眠りについていたときにタイタニック号は氷山に衝突した[2]。ローザのいた船室は、船尾付近だったために衝突の衝撃は少しだけしか伝わってこなかった[2]。4月15日の午前12時15分に客室係が各室のドアをたたいて急を知らせ、ライフジャケットを着用するように警告した[4][2]。ローザたちは船室から通路に出て、他の乗客たちとともに後部Eデッキの3等区画の階段付近で次の指示を待っていた[4][2]。指示を待ち続けているうちにも、床面の前方への傾きがはっきりわかるようになってきたため、ローザと息子たちはCデッキの左舷側甲板まで登って行った[4][2]。
左舷側で乗客の避難誘導を指揮していたのは、2等航海士のチャールズ・ライトラーであった[注釈 3][2]。誘導に当たっていた船員の1人から、女性は通ることができるが息子たちは一緒に行くことはできないと拒絶されたため、ローザは自分1人だけ助かるわけにはいかないと乗船を拒んだ[注釈 3][4][2][14]。
午前2時10分に、タイタニック号の船首は完全に海面下へと没した[2]。ローザは息子たちをしっかりと抱きかかえて甲板に立っていたが、今度は船尾のほうが急角度に持ち上げられた[4][2]。もはや甲板に立っていることもできず、3人は摂氏マイナス2.2度の冷たい海に投げ出された[4][2][14]。息子たちは激しい水流に押し流されて、ローザの腕からもぎ取られるように姿を消した[4][2][14]。
ローザ自身も海中に2回引きずりこまれたが、2回とも木材類にぶつかったために海上に浮上できた[2]。ローザは息子たちの名を呼びながら、しばらくの間氷の海を泳ぎ続けた[2]。ローザを見つけたのは、折り畳みボートA号だった[2][14][15]。男性2人が、彼女をボートの上に引き上げた[2]。
折り畳みボートA号は、タイタニック号沈没の際に海上に流れ出したボートで、損傷がかなりあった[2][15]。ローザのように海中から救い出された者や、自力でボートにたどり着いた者を含めて30人ほどが折り畳みボートA号の上にいた[2][15][16]。このボートは横のキャンバス部分まで浮かぶこともできず、船べりは水面とほぼ同じ高さで水が出入りしていた[2]。折り畳みボートA号に乗った人々の中で体力の尽きた者が1人また1人凍死していき、そのたびに船べりから海上に降ろされていった[4][2][15][16]。折り畳みボートA号に最後まで残った人々は、十数人まで減っていて、女性はローザのみであった[4][2][3][14][15][16][17]。冷たい海水に膝までつかるような状況の中で、折り畳みボートA号の人々は気力を奮い立たせるために歌を歌い続け、朝6時に5等航海士ハロルド・ロウ(en:Harold Lowe)が指揮する救命ボート14号に救われた[4][2][15][16][17]。ロウは折り畳みボートA号にいた生存者を救命ボート14号に乗り移らせ、救助のため近づいたキュナード・ラインの客船カルパチア号の方へと針路を変えた[16][17]。
ローザは肋骨を数本折っていた[2]。カルパチア号の船内では、ほとんど病室から動くこともできなかった[1][4][2]。ニューヨークに到着した後、彼女はマンハッタンのセント・ヴィンセント病院(en:Saint Vincent's Catholic Medical Center)に入院した[1][2]。
ローザの息子たちのうち、当時16歳のロスモアが4月24日に大西洋上で見つかり、名前入りのメダルなどから身元が確認された[注釈 4][9][18]。ロスモアの遺体は、ハリファックスに持ち帰られることなく水葬された[注釈 5][9][18][20]。当時13歳のユージンは、ついに行方不明のままであった[注釈 4][8][21]。
その後
[編集]タイタニック号の事故は、ローザの残りの人生に精神的にも肉体的にも大きなダメージを与えた[1][4]。重症の喘息発作を含む呼吸器の疾病に加え、息子たちの死がさらに追い打ちをかけた[4]。それにもかかわらず、ローザは別の3等船客の大家族セージ一家のことを気の毒に思っていた[注釈 6][23]。ローザのこの心情について、『タイタニック 百年目の真実』(原題:FAREWELL,TITANIC HER Final LEGACY、2012年)の著者チャールズ・ペレグリーノは、3等の乗客のうち子供が3人かそれ以上いる家族は、全員が命を落としたことを指摘している[注釈 7]。
ローザは1914年3月に、エミリー・ゴールドスミスに宛ててセージ一家のことについて手紙を書きおくった[24]。
私はしょっちゅうあの家族のことを思います。あんなすばらしい大家族が、それも全員が失われるなんて、
それを考えるとよく頭がどうにかなりそうになります。 — ペレグリーノ、pp.357-358.
ローザは1912年12月16日に長年の友人だったジョージ・ウィリアムズ(1875年10月20日 - 1938年6月5日)と結婚して、フロリダ州のジャクソンビルに定住した[4][25]。1928年には、ジョージの父親の財産の件でイギリスに戻った[4]。同年にジョージは脳卒中で左半身麻痺の状態になり、ローザは介護にあたった[4]。ジョージは1938年に死去し、ローザは余生をアメリカ合衆国で過ごそうとしたが、第二次世界大戦の勃発などによってそれはかなわなかった[4]。ローザは1946年2月18日に、高血圧による心不全で73歳の生涯をロンドンで終えた[4]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『新訂 タイタニックがわかる本』p.137ではユージンの年齢を「9歳」としている。本稿ではEncyclopedia Titanicaの記述を採用した[8]。
- ^ エイミー・スタンレーとメイ・ハワードは当時24歳と27歳の独身女性、エミリー・ゴールドスミスは当時31歳で夫と当時9歳の息子フランク(en:Frank John William Goldsmith)と同行していた。3人とフランクは救助されたが、エミリー・ゴールドスミスは夫を亡くしている[10][11][12]。
- ^ a b 『タイタニックがわかる本』では、この事故の夜は8歳以上の少年たちはみな「成年男子」とみなされ、母親が右舷と左舷のどちらに連れていくかでその運命が決せられたことを指摘している[2]。左舷側担当のライトラーが「女性と子供優先」を徹底的に守っていたのに対して、右舷側で乗客の誘導を担当した1等航海士のウィリアム・マクマスター・マードックは男性に対しても比較的寛大に対応し、ボートの定員に余裕がある場合はその乗船を許可していた[13]。
- ^ a b 資料によっては、発見されたのはユージンの方と記述しているものもある。本稿では、Encyclopedia Titanicaなどの記述に拠った。
- ^ 捜索に従事したマッケイ=ベネット号(en:CS Mackay-Bennett)、ミニア号、モンマグニー号、アルジェリーン号の4隻と、カルパチア号の船上で死亡した人や他の客船が発見、収容した遺体を合わせると、合計で337人の死者が確認された[19]。そのうちハリファックスに持ち帰られたのは209人の遺体で、残りは水葬された[19]。水葬されたのは身元につながる手掛かりが全くない人や、事故による損傷が激しかったために防腐措置ができないと判断された人であった[19]。
- ^ セージ一家は、イングランドのケンブリッジシャーからフロリダ州のジャクソンビルを目指して一家11人で乗船していた。事故に遭遇して一家全員が死亡したが、遺体が確認されたのは当時14歳のアンソニーだけであった[22]。
- ^ ペレグリーノはイングランド出身のグッドウィン一家(両親と子供6人の計8人)やスウェーデン出身のアンデション一家(両親と子供5人の計7人)などの例を挙げている[23]。セージ一家は20歳の娘を頭に、末の男の子は4歳の9人兄弟姉妹で、両親とともにフロリダ州ジャクソンビルを目指していた[23]。これらの家族は、全員が事故で死亡した[23]。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i “Mrs Rhoda Mary 'Rosa' Abbott (née Hunt)” (英語). Encyclopedia Titanica. 2015年11月14日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab 高島、pp.133-137.
- ^ a b ガーディナー、pp.268-269.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af “The Mystery of Rhoda Abbott Revealed” (英語). Encyclopedia Titanica. 2015年11月14日閲覧。
- ^ Spignesi, Stephen (2012). The Titanic For Dummies. New Jersey: John Wiley & Sons, Inc.. pp. 113. ISBN 978-1-1181-7766-2
- ^ “George Stanton Abbott” (英語). Find a Grave. 2015年11月12日閲覧。
- ^ “Stanton Abbott” (英語). BoxRec. 2015年11月14日閲覧。
- ^ a b c “Mr Eugene Joseph Abbott” (英語). Encyclopedia Titanica. 2015年11月14日閲覧。
- ^ a b c “Mr Rossmore Edward Abbott” (英語). Encyclopedia Titanica. 2015年11月14日閲覧。
- ^ “Mrs Emily Alice Goldsmith (née Brown)” (英語). Encyclopedia Titanica. 2015年11月14日閲覧。
- ^ “Miss May Elizabeth Howard” (英語). Encyclopedia Titanica. 2015年11月14日閲覧。
- ^ “Miss Amy Zillah Elsie Stanley” (英語). Encyclopedia Titanica. 2015年11月14日閲覧。
- ^ ロード、pp.91-95.
- ^ a b c d e ペレグリーノ、p.325
- ^ a b c d e f ウィノカー、pp.344-350.
- ^ a b c d e バトラー、pp.266-267.
- ^ a b c ロード、pp.213-214.
- ^ a b “Description of recovered bodies” (英語). Encyclopedia Titanica. 2015年11月12日閲覧。
- ^ a b c 高島、pp.173-175.
- ^ “Rossmore Edward Abbott” (英語). Find a Grave. 2015年11月12日閲覧。
- ^ “Eugene Joseph Abbott” (英語). Find a Grave. 2015年11月12日閲覧。
- ^ “Master Anthony William Sage” (英語). Find a Grave. 2015年11月12日閲覧。
- ^ a b c d ペレグリーノ、pp.356-358.
- ^ ペレグリーノ、pp.357-358.
- ^ “George Charles Williams” (英語). Find a Grave. 2015年11月12日閲覧。
参考文献
[編集]- ジャック・ウィノカー編 『SOSタイタニック号』 佐藤亮一訳、恒文社、1991年。 ISBN 4-7704-0742-4
- ロビン・ガーディナー 『なぜタイタニックは沈められたのか』 内野儀訳、集英社、2003年。 ISBN 4-08-773381-5
- 高島健 『新訂 タイタニックがわかる本』 成山堂書店、2009年。 ISBN 978-4-425-94603-7
- ダニエル・アレン・バトラー 『不沈 タイタニック 悲劇までの全記録』 大地舜訳、実業之日本社、1998年。 ISBN 4-408-32068-4
- チャールズ・ペレグリーノ 『タイタニック 百年目の真実』 伊藤絢訳、原書房、2012年。 ISBN 978-4-562-04856-4
- ウォルター・ロード『タイタニック号の最期』(佐藤亮一訳、ちくま文庫)、1998年。 ISBN 4-480-03399-8