ワーデル・カゼア
ワーデル・カゼア | |
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ゲイトマウス・ブラウン(右)とワーデル・カゼア (1997年、ニューオーリンズのタワー・レコードにて) | |
基本情報 | |
出生名 | Wardell Quezergue |
生誕 | 1930年3月12日 |
出身地 | 米国ルイジアナ州ニューオーリンズ |
死没 | 2011年9月6日(81歳没) |
ジャンル | ジャズ、R&B、ブルース |
職業 | プロデューサー、編曲者、指揮者、バンドリーダー |
活動期間 | 1950年 - 2011年 |
レーベル | ノーラ・レコード、他 |
ワーデル・カゼア(Wardell Quezergue, 1930年3月12日 - 2011年9月6日)は、米国の作曲家、編曲者、プロデューサー、指揮者、バンドリーダー。ニューオーリンズのミュージシャンの間で、「クレオールのベートーベン」として知られた。
来歴
[編集]1940年代後半、デイヴ・バーソロミュー楽団で活動。続く朝鮮戦争における軍隊所属ミュージシャンとしての経歴を経て、50年代半ばにロイヤル・デュークス・オヴ・リズムで、自身の活動を開始する。また、彼はプロフェッサー・ロングヘア、ファッツ・ドミノら、ニューオーリンズの大物ミュージシャン達の編曲者としても活躍するようになった。
1963年にノーラ・レコードを設立[1]。同レーベルからは、ロバート・パーカーの「Barefootin'」がR&Bチャート2位のヒットを記録した他、エディー・ボー、ウィリー・ティー、スモーキー・ジョンソンらがレコードをリリースした。のちにカゼアはキング・フロイドの「Groove Me」、ジーン・ナイトの「ミスター・ビッグ・スタッフ」などをレコーディングする。スタックス、アトランティックらの大手レーベルが、売れる見込みがないとして興味を示さなかったのを受け、カゼアはこれらの曲を当時経営難だったマラコへ持ち込み、同レーベルから全国的ヒットとなったのだった。
これらの実績から、70年代にはカゼアの編曲者として評価は高まり、またマラコ・スタジオも人気のスタジオとなった。同スタジオを使ったアーティストには、ポール・サイモン、ウィリー・ネルソン、B.B.キングらがいる。
カゼアは、ドクター・ジョンの1992年のグラミー賞受賞作品、「Going Back To New Orleans」のプロデューサー、編曲者を務めた。既にクラシック音楽の作曲家、指揮者としての評価も得ていた彼だが、2000年には自身の朝鮮戦争における経験を基にした作品、「A Creole Mass」を発表した[2]。
2005年、法律上の盲人となっていた彼はハリケーン・カトリーナで被災し、財産のほとんどを失ってしまった[3]。翌年の7月30日、ドクター・ジョンが呼びかけ、R.E.M.のマイク・ミルズが支援する形で、カゼアへのベネフィット・コンサートがシカゴで開催された[4]。
2011年9月6日、うっ血性心不全のため死去[5]。 81歳没。