ヴァシリー・クジエフ
ヴァシリー・ミハイロヴィチ・クジエフ Василий Михайлович Куджиев | |
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生年月日 | 1890年1月5日 |
出生地 | ロシア帝国オロネツ県オロネツ郡ボリシエ・ゴールィ |
没年月日 | 1976年11月30日(86歳没) |
死没地 |
ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、レニングラード |
出身校 | ペトログラード大学法学部卒業 |
前職 | 弁護士 |
所属政党 |
(ロシア社会民主労働党国際派→) (ボリシェヴィキ→) ソビエト連邦共産党 |
在任期間 | 1921年 - 1922年 |
在任期間 | 1926年1月 - 7月 |
在任期間 | 1917年5月 - 1918年1月4日 |
ヴァシリー・ミハイロヴィチ・クジエフ(ロシア語: Василий Михайлович Куджиев、カレリア語: Vasili Mihailovitš Kudžijev、1890年1月5日 - 1976年11月30日)は、ロシアの革命家、ソビエト連邦の政治家・法曹。
生涯
[編集]1890年1月5日(ユリウス暦1889年12月24日)[1]、ロシア帝国オロネツ県ボリシエ・ゴールィで、教師の父と農婦の母との間に生まれたカレリア人[2]。ペトロザヴォーツク中等学校在学中の1905年に革命運動に関わり始め[3]、1907年から社会民主主義組織「オロネツ県支援委員会」に参加し、地下出版・宣伝や政治亡命者のための資金調達活動に従事[2]。同年秋からロシア社会民主労働党ペトロザヴォーツク支部で「アントン」の党名で活動していたが、翌1908年に逮捕され中等学校も放校された[2]。1915年にペトログラード大学法学部を卒業し[1]、翌1916年にはペトログラードの第6予備技術大隊に配属されていた[2]。
二月革命まではペトログラードで弁護士をしていたが[4]、1917年からロシア社会民主労働党国際派 (ru) 中央委員会メンバーとなり、5月から翌1918年1月4日までオロネツ県ソビエト執行委員会議長を務めた[1]。1919年5月からモスクワでボリシェヴィキ鉄道地区委メンバーとなり、パヴェレツ線 (ru) で宣伝活動を行う[2]。同年にはロシア社会主義連邦ソビエト共和国鉄道輸送人民委員部 (ru) でも働いた[2]。同時期には『コミュニスト』紙編集者も務めた[3]。翌1920年5月にボリシェヴィキ中央委の命によりペトロザヴォーツクに派遣され[2]、8月7日から翌1921年2月19日までカレリア革命委員会メンバーとなる[1]。1921年には党カレリア・オロネツ県委煽動・宣伝部部長を務め[1]、同時期には教育部部長、革命裁判所長官や民族問題人民委員部カレリア人代表、州執行委員、ペトロザヴォーツク市煽動・宣伝部部長も務めた[2]。第10回党大会にも出席[2]。
同年から翌1922年までは党カレリア労働コミューン州委責任書記を務め[1]、コミューンではソビエト執行委副議長に選出されている[2]。しかし1922年6月13日には党中央委シベリア局 (ru) によってオムスク県に送られた[3]。翌1923年8月から1926年10月まで党アルハンゲリスク県委アジテーション・プロパガンダ部部長を務め、同年1月から7月にかけては同県委責任書記を代行[1]。1926年からはレニングラードの法科大学に勤務し[2]、同年10月から1934年までレニングラード州副検事長とスターリン産業アカデミー (ru)・レニングラード支部副学長を、1934年から翌1935年まで学長を務めた[1]。1938年2月からレニングラード州弁護士会会員となり、1941年から会長となった[1]。
しかし、1949年にレニングラード事件に連座して逮捕され、翌1950年8月13日に懲役10年の判決を受けた[2]。その後、1954年に名誉回復[2]。1956年から年金生活に入り、1976年11月30日にレニングラードで死去した[2]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i “Куджиев Василий Михайлович”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. 2018年3月3日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n “Куджиев Василий Михайлович”. Национальная библиотека Республики Карелия. 2018年3月3日閲覧。
- ^ a b c Копьев Н. Я.. “Куджиев Василий”. Петрозаводск ГОВОРИТ 2018年3月3日閲覧。
- ^ "Приказъ за Губернскаго Комиссара Временнаго Правительства, Помощиника его" (газета) (56) (Олонецкія губернскія вѣдомости ed.). Петрозаводск. 1917年5月27日: 1.
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党職 | ||
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先代 なし |
ロシア共産党(ボ)カレリア労働コミューン州委員会責任書記 1921年 - 1922年 |
次代 ヨハン・ヤルヴィサロ |
先代 ヴァシリー・シュニャコフ |
全連邦共産党(ボ)アルハンゲリスク県委員会責任書記 代行 1926年1月 - 7月 |
次代 ダヴィド・ベイカ |
公職 | ||
先代 なし |
ロシア共和国オロネツ県ソビエト執行委員会議長 11月7日からロシア・ソビエト共和国 1917年5月 - 1918年1月4日 |
次代 ヴァレンチン・パルフョーノフ |