ヴァルター・ヴァルツェハ
ヴァルター・ヴァルツェハ Walter Warzecha | |
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生誕 | 1891年5月23日 ドイツ帝国 プロイセン王国、ブランデンブルク州シュヴィーバス |
死没 | 1956年8月3日 (65歳没) 西ドイツ、ハンブルク |
所属組織 | ドイツ帝国 ヴァイマル共和政 ナチス・ドイツ |
部門 | ドイツ帝国海軍 ヴァイマル共和国海軍 ドイツ国防軍海軍 |
軍歴 | 1909年 - 1945年 |
最終階級 | 海軍上級大将 |
指揮 | 「UC-1」艦長 「UC-71」艦長 「UB-148」艦長 「アドミラル・グラーフ・シュペー」艦長 海軍総司令官 |
戦闘 | 第一次世界大戦 第二次世界大戦 |
受賞 | 戦功十字章剣付騎士十字章 |
ヴァルター・ヴィルヘルム・ユリウス・ヴァルツェハ(Walter Wilhelm Julius Warzecha、1891年5月23日 - 1956年8月3日)は、ドイツの海軍軍人。国防軍海軍上級大将。国防軍最後の海軍総司令官。
経歴
[編集]1891年5月23日、シュヴィーバス Schwiebus(現在のポーランド領シヴィエボジン Świebodzin)生まれ。父のマックス・ヴァルツェハはノイルッピン Neuruppinの町長だったが、一家はシレジア出身である。
第一次世界大戦
[編集]1909年4月1日、ヴァルツェハは士官候補生(Seekadett)としてドイツ帝国海軍に入営した[1]。最初の配属先は重巡洋艦「ヴィクトリア・ルイーゼ」で、1910年4月にFähnrich zur Seeに昇進した。1911年から1916年にかけてはドレッドノート戦艦「ナッソー」に乗艦し、1912年9月に海軍少尉に昇進、1915年5月2日には海軍中尉に昇進した[1]。
1916年8月から第一次世界大戦終結まで、「UC-1」「UC-71」「UB-148」などのUボートの指揮官を務め、9隻(計22612トン)を撃沈、10隻(計55808トン)に損害を与えた[2]。
戦間期
[編集]第一次世界大戦後はドイツ海軍の主港であるヴィルヘルムスハーフェン(北海鎮守府所在地)とキール(バルト海鎮守府所在地)に定住し、家庭を築いて4児の父となった。ドイツの再軍備後、彼は北海鎮守府で現役に復帰し、1920年から海軍大尉に任官する。1928年には海軍少佐に昇進し、1933年には海軍中佐に昇進した。1934年にはバルト海鎮守府参謀長となった。1937年10月から1938年10月にかけては、ドイッチュラント級装甲艦「アドミラル・グラーフ・シュペー」艦長を務めた[1]。
第二次世界大戦
[編集]1941年1月1日に海軍少将に昇進し、海軍総司令部参謀として1942年8月までChef des Marinewehramtesを務める。1941年1月1日に海軍中将に昇進し、1939年11月から1944年4月までChef des Allgemeinen Marinehauptamtesを務める。1944年3月1日には海軍上級大将に昇進し、5月1日にはChef der Kriegsmarinewehrに任命された[1]。
第二次世界大戦が終結し、1945年5月23日にハンス=ゲオルク・フォン・フリーデブルク海軍総司令官が自殺した後、ワルツェーシャは連合国軍の支配下で最後の海軍総司令官の職務を引き受け、1945年7月22日までドイツ国防軍海軍の解散を監督した[1]。
戦後
[編集]1947年まで捕虜として収容され、その後ハンブルクに定住し、アリアンツ保険に勤務した。1956年8月30日に心臓発作で死去し、キールのノルトフリートホーフ(Nordfriedhof)に埋葬された。
栄典
[編集]- ホーエンツォレルン家勲章剣付騎士十字章
- 鉄十字章(1914年)
- 二級
- 一級
- 鉄十字章略章 (1939)[1]
- 二級
- 一級
- ドイツ十字章銀章(1943年1月30日[3])
- 戦功十字章[1]
- 二級
- 一級
- 剣付騎士十字章(1945年1月25日)
- ザクセン=エルネスティン家勲章
- 剣付一級騎士十字章
- フリードリヒ・アウグスト十字章
- 二級
- 一級
- ハンブルク・ハンザ十字章
- Uボート戦闘章(1918年)
- 艦隊戦闘章
脚注
[編集]- 注釈
- 参考文献
- Patzwall, Klaus D. and Scherzer, Veit (2001). Das Deutsche Kreuz 1941 - 1945 Geschichte und Inhaber Band II. Norderstedt, Germany: Verlag Klaus D. Patzwall. ISBN 3-931533-45-X.