ヴィルヘルム (オルデンブルク公)
ペーター・フリードリヒ・ヴィルヘルム Peter Friedrich Wilhelm | |
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オルデンブルク公 オルデンブルク大公 | |
在位 | 1785年 - 1815年(公) |
在位 | 1815年 - 1823年(大公) |
出生 |
1754年1月3日 リューベック司教領、オイティーン |
死去 |
1823年7月2日(69歳没) ホルシュタイン公国 プレーン |
埋葬 | リューベック大聖堂、新司教霊廟 |
家名 | ホルシュタイン=ゴットルプ家 |
父親 | オルデンブルク公フリードリヒ・アウグスト1世 |
母親 | ウルリーケ・フォン・ヘッセン=カッセル |
ペーター・フリードリヒ・ヴィルヘルム(Peter Friedrich Wilhelm von Oldenburg, 1754年1月3日 - 1823年7月2日)は、ドイツのオルデンブルク公(在位:1785年 - 1815年)、後に初代オルデンブルク大公(在位:1815年 - 1823年)。精神を病んでいたため、その治世には従弟のペーター(1世)が摂政として統治を行った。
生涯
[編集]ホルシュタイン=ゴットルプ家のリューベック領主司教フリードリヒ・アウグスト(1世)と、その妻でヘッセン=カッセル公子マクシミリアンの娘であるウルリーケ(1722年 - 1787年)の間の長男として生まれた。1769年・1770年にキール大学で学んだ後、1年間のグランドツアーに赴いた。ツアーに随行したのは哲学者ヨハン・ゴットフリート・ヘルダーであり、シュトラスブルクに文豪ゲーテを訪ねた後、ヘルダーを同伴せずにパリ、ブリュッセル、ロンドンを巡った。
1773年、ツァールスコエ・セロー条約の取り決めに従って、リューベック司教座聖堂参事会により、デンマーク王子フレゼリクに代わってリューベック補佐司教に選任された。その年のうちに父がオルデンブルク公爵領を獲得し、ヴィルヘルムはその公世子(Erbprinz)となった。また、ヘッセン=ダルムシュタット公子ゲオルク・ヴィルヘルムの娘シャルロッテと婚約した。
しかし、ヴィルヘルムにはグランドツアーの頃から精神疾患の症状が現れていて、症状が重くなると、シャルロッテとの婚約も破棄された。オルデンブルク公爵領の相続権放棄は不可避となり、放棄宣言は1777年2月14日に行われた。しかし、フリードリヒ・アウグストの後を継いでオルデンブルクの統治者となった従弟ペーターはヴィルヘルムに対する配慮を見せ、オルデンブルク公爵の称号は1823年に亡くなるまでヴィルヘルムに属することになった。
ヴィルヘルムはシュテンドルフ荘園(Gut Stendorf)に隠棲後、デンマーク王クリスチャン7世によりプレーン城(Schloss Plön)を居所として与えられ、この城を終の棲家とした。1823年に死去すると、リューベック大聖堂の新司教霊廟(Neuen Fürstbischöflichen Mausoleum)に葬られた。
参考文献
[編集]- August Mutzenbecher (1887). "Peter Friedrich Wilhelm". Allgemeine Deutsche Biographie (ドイツ語). Vol. 25. Leipzig: Duncker & Humblot. p. 469.
- Peter Friedrich Wilhelm, Herzog von Holstein-Oldenburg, in: Neuer Nekrolog der Deutschen, Erster Jahrgang 1823, Zweites Heft, Ilmenau 1824, S. 569-577 (Digitalisat)
外部リンク
[編集]- ヴィルヘルムの著作およびヴィルヘルムを主題とする文献 - ドイツ国立図書館の蔵書目録(ドイツ語)より。
爵位・家督 | ||
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先代 フリードリヒ・アウグスト1世 |
オルデンブルク公 1785年 - 1815年 |
次代 大公に昇格 |
先代 公領から昇格 |
オルデンブルク大公 1815年 - 1823年 |
次代 ペーター1世 |