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ヴェルフニエ・リホボルィ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Верхние Лихоборы
ヴェルフニエ・リホボルィ
ロシア帝国の旗 ロシア帝国および
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の村

18世紀末 - 1960年
歴史
 - ニジニエ・リホボルィと分離 18世紀末
 - モスクワへ編入 1960年
人口
 - 1939年 1,753 
現在 モスクワ内北部行政管区ロシア語版
ヴェルフニエ・リホボルィの位置(モスクワ環状道路内)
ヴェルフニエ・リホボルィ
ヴェルフニエ・リホボルィ

ヴェルフニエ・リホボルィロシア語: Верхние Лихоборы)は、1960年までモスクワに存在した村。リホボルカ川を挟んでニジニエ・リホボルィの対岸に位置し、ドミトロフ・ショセロシア語版が通っていた。

沿革

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この村が史料に現れるのは18世紀のことで、当時は「バニノ」(Банино) や「ソバーキノ」(Собакино) などと呼ばれていた荒れ地に過ぎなかった[1]。しかし、おそらく1719年から1743年の間にドミトロフ・ショセロシア語版に郵便局が設置され、デグニノ (ru) から農民が移り住むようになった[2]1766年には、村は「リホボル」(Лихобор) や「ソバーキノ」などと呼ばれるようになり、18世紀末にはさらにリホボルカ川 (ru) によって分割され、「ニジニエ・リホボルィ(下リホボルィ)」とともに「ヴェルフニエ・リホボルィ(上リホボルィ)」が誕生した[1]。当時の村人の男性人口の多くは染色や宿の経営を営んでおり、また農民は小作農であった[1][2]。村は18世紀後半から経済コレギヤロシア語版の、19世紀半ばから国家財産管理区の管轄となった[2][3]

19世紀後半に村の近郊に煉瓦工場が建設され、1876年には4年制学校が、20世紀初頭には染色・漂白工場[3]や「ボリスとグレプ」聖堂が建てられた[2]1917年から、ヴェルフニエ・リホボルィはデグニノとベスクドニコヴォ (ru) も領域とする村ソビエトの中心地となった。染色・漂白工場は1928年に焼失したが、その後新たに建設された煉瓦工場群「リホボルスキー・キルピチニコフ」«Лихоборский кирпичник» によって村は急速な発展を遂げた。その他にも「勝利」«Победа» 農場やボタン工場群「真珠母」(«Перламутр»、後のプラスチック工場4号)、家具工場やスポーツ用品、ラジオ製造企業も村に建てられた[2]

1950年には村の2つの通りにヴェルフニエ・リホボルィの名が冠され、うち第1ヴェルフニエ・リホボルィ通り (ru) は現存する[4][5]1929年から1960年までの村の中心はヴェルフニエ・リホボルィ村ソビエト (ru) であった[6]

人口推移[1][2]
1770 1859 1898 1928 1939 1960
人口 137 137 228 246 1753 >2500
家屋数 20 16 34 52

脚注

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  1. ^ a b c d Москва: все улицы, площади, бульвары, переулки. М.: Алгоритмロシア語版, Эксмо. Вострышев М. И. 2010. ISBN 978-5-699-33874-0
  2. ^ a b c d e f История московских районов. Энциклопедия. М.: АСТロシア語版. Под ред. К. А. Аверьянова. 2005. pp. 366–369.
  3. ^ a b Москва. Энциклопедический справочник. М.: Большая Российская энциклопедия. 1992.
  4. ^ Верхнелихоборская улица // Имена московских улиц. Топонимический словарь / Агеева Р. А. и др. — М.: ОГИ, 2007.
  5. ^ Общемосковский классификатор улиц Москвы: Верхнелихоборская улица
  6. ^ Справочник по административно-территориальному делению Московской области 1929—2004 гг (1500 экз ed.). М.: Кучково поле. 2011. ISBN 978-5-9950-0105-8