一ノ瀬俊也
表示
一ノ瀬 俊也(いちのせ としや、1971年(昭和46年)1月19日[1] - )は、日本の歴史学者。埼玉大学教授。専門は日本近現代史[2]、とくに軍事史・社会史。博士(比較社会文化)[2](九州大学、2003年)(学位論文「近代日本の徴兵制度と社会」)。福岡県出身[2]。
人物情報 | |
---|---|
生誕 |
1971年1月19日(53歳) 日本・福岡県山門郡瀬高町(現・みやま市)[3] |
国籍 | 日本 |
出身校 |
九州大学文学部 九州大学大学院比較社会文化研究科 |
学問 | |
研究分野 | 日本近現代史 |
研究機関 |
国立歴史民俗博物館 埼玉大学 |
学位 | 博士(比較文化社会)(九州大学) |
略歴
[編集]- 1994年3月 九州大学文学部史学科(国史学専攻)卒業[2]
- 1998年3月 九州大学大学院比較社会文化研究科博士後期課程中退[2]
- 1998年4月 国立歴史民俗博物館助手(歴史研究部)[2]
- 2007年4月 国立歴史民俗博物館助教[2]
- 2007年10月 埼玉大学教養学部准教授
- 2016年4月 埼玉大学教養学部教授
著書
[編集]単著
[編集]- 『近代日本の徴兵制と社会』(吉川弘文館、2004年)
- 『明治・大正・昭和 軍隊マニュアル』(光文社新書、2004年)
- 『銃後の社会史』(吉川弘文館、2005年)
- 『戦場に舞ったビラ 伝単で読み直す太平洋戦争』(講談社選書メチエ、2007年)
- 『旅順と南京 日中五十年戦争の起源』(文春新書、2007年)[4]/>
- 『宣伝謀略ビラで読む、日中・太平洋戦争』(柏書房、2008年)
- 『皇軍兵士の日常生活』(講談社現代新書、2009年)
- 『故郷はなぜ兵士を殺したか』(角川学芸出版、2010年)
- 『米軍が恐れた「卑怯な日本軍」 帝国陸軍戦法マニュアルのすべて』(文藝春秋、2012年)
- 『日本軍と日本兵 米軍報告書は語る』(講談社現代新書、2014年)
- 『戦艦大和講義 私たちにとって太平洋戦争とは何か』(人文書院、2015年)
- 『戦艦武蔵 忘れられた巨艦の航跡』(中公新書、2016年)
- 『飛行機の戦争 1914-1945 総力戦体制への道』(講談社現代新書、2017年)
- 『昭和戦争史講義 ジブリ作品から歴史を学ぶ』(人文書院、2018年)
- 『特攻隊員の現実』(講談社現代新書、2020年)
- 『東條英機 「独裁者」を演じた男』(文春新書、2020年)
共著
[編集]論文
[編集]- 「日本陸軍と"先の戦争"についての語り―各連隊の「連隊史」編纂をめぐって」(『史学雑誌』112-8、2003年8月)
- 「日露戦後~太平洋戦争期における戦死者顕彰と地域―"郷土の軍神"大越兼吉陸軍歩兵中佐の事例から」(『日本史研究』501)2004年5月)
- 「皇軍兵士の誕生」(『岩波講座 アジア・太平洋戦争5 戦場の諸相』岩波書店、2006年)
- 「銃後史研究の可能性―「戦死の伝えられ方」をめぐって」(『歴史評論』689、2007年9月)
- 「戦争と伝単というメディア」(『アジア遊学』111、2008年7月)
- 「〈対米戦マニュアルの実態〉日本陸軍は本当に敵を知らなかったのか」(『中央公論』2009年1月号)
刊行史料
[編集]- 『近代日本軍隊教育・生活マニュアル資料集成 明治・大正編』全7巻(柏書房、2009年)
- 『近代日本軍隊教育・生活マニュアル資料集成 昭和編』全7巻(柏書房、2010年)
- 『編集復刻版『昭和期「銃後」関係資料集成』全9巻(六花出版、2012-13年)
脚注
[編集]外部リンク
[編集]- ^ 『読売年鑑 2016年版』(読売新聞東京本社、2016年)p.299
- ^ a b c d e f g 一ノ瀬俊也『戦場に舞ったビラ : 伝単で読み直す太平洋戦争』(初版)講談社〈講談社選書メチエ〉、2007年3月、薄表紙頁。ISBN 9784062583848。
- ^ 埼玉大学教養学部教員紹介
- ^ 一ノ瀬俊也著「旅順と南京 日中五十年戦争の起源」(2007年、文春新書)について、歴史学者の宮脇順子から次の批判がある(宮脇順子「満州国の真実」扶桑社新書、P96) 「・この著作のタイトルは、(日清戦争の際の)旅順虐殺事件と(日中戦争時の)南京虐殺事件が関係あるかのようなタイトルであるが、南京虐殺事件については、何も書かれていない。」 「・清国側が「2万人が旅順で殺された」と言っているのは、全くの嘘である。日本側が作成した記録では全く違う数字であり、また清国側には何も記録が残されていない。」 「・渡辺惣樹著「日米衝突の根源」(草思社)には、旅順虐殺報道はジェームズ・クリールマン記者による捏造であったことが、具体的に述べられている。また、アメリカ政府もエドウィン・ダン駐日公使に調査させ、同公使は「クリールマンの記事がきわめて煽情的で誇張に満ちている」と本国に報告している。その後、陸奥宗光外相の様々な発言が米国の新聞で伝えられ、日本非難の論調は沈静化した(大谷正「日清戦争時の「軍夫」関係資料調査行の記録(上)(下)) 上記の批判に関連する部分として、一ノ瀬俊也著「旅順と南京 日中五十年戦争の起源」のP215で、一ノ瀬氏は、「日中戦争時の日本軍の不祥事」の多くは、「日清戦争の時点で発生していた」、「日清戦争は日中戦争の起源」だと述べている。」 なお、磯見辰典・黒沢文貴・櫻井良樹「日本・ベルギー関係史」P179には、上記クリールマン記者の記事を不審に思ったベルギーの駐日公使アルベール・ダネタン男爵が、旅順の現地にいたフランスの駐在武官ラブリ子爵からの聞き取り調査の結果、「(旅順で)殺された者は軍服を脱いだ兵士たちであり、婦女子が殺されたというのは真実ではない。」「旅順港占領の数日前にほとんどの住民は避難していた」と断言したと述べられており、この「ダネタン報告」について樋口晴彦は、「旅順事件に関する事例研究 」(千葉商大紀要51, 2, p. 191-232, 2014-03)のP197(13)で、「信憑性は高い」としている。