一柳末昭
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 寛政2年5月7日(1790年6月19日)[1] |
死没 | 文化9年10月17日(1812年11月20日)[1] |
改名 | 鈘右衛門[1][2]、隼人[1] |
戒名 | 嶺松院殿雲巌宗岫大居士[1] |
墓所 | 東京都渋谷区広尾の祥雲寺[1] |
官位 | 従五位下土佐守[1] |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 播磨小野藩主 |
氏族 | 一柳氏 |
父母 | 父:一柳末英 母:板倉勝任養女[2] |
兄弟 | 末昭、末周ら |
妻 | 稲葉弘通娘 |
子 | 養子:末周 |
一柳 末昭(ひとつやなぎ すえあきら)は、江戸時代後期の大名。播磨国小野藩7代藩主。官位は従五位下土佐守。
略歴
[編集]文化元年(1804年)7月5日、父が病を理由に隠居したため、その跡を継いだ。文化9年(1812年)10月17日に23歳で死去し[1]、跡を弟の末周が継いだ。
系譜
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第六百四
- 『寛政重修諸家譜 第四輯』(国民図書、1923年) 国立国会図書館デジタルコレクション
- 『新訂寛政重修諸家譜 第十』(八木書店、1965年)
- 一柳貞吉『一柳家史紀要』1933年 。