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一柳末徳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
一柳末徳
一柳末徳
時代 江戸時代後期 - 大正時代
生誕 嘉永3年7月19日1850年8月26日
死没 大正11年(1922年3月7日[注釈 1]
改名 包五郎[1]、末徳
諡号 徳源院殿実道至信大居士[1]
墓所 東京都の染井墓地[1]
官位 対馬守[1]正三位従二位
幕府 江戸幕府
主君 徳川家茂慶喜明治天皇大正天皇
播磨小野藩
氏族 九鬼氏一柳氏
父母 九鬼隆都一柳末彦
兄弟 九鬼隆備大田原富清九鬼隆義末徳建部秀隆九鬼寧隆本庄道美正室、
板倉勝敬正室、石川総邦正室ら
一柳頼紹栄子志乃、妾蓉子
譲二、広岡恵三、剛、大井光衛室、
喜久子、満喜子筏井寿夫室ら
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一柳 末徳(ひとつやなぎ すえのり)は、江戸時代後期の大名播磨国小野藩第11代(最後)の藩主。明治維新後に華族子爵)となり、貴族院議員(子爵議員)を務めた[1]

経歴

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丹波国綾部藩主・九鬼隆都の五男として誕生した[1]。幼名は包五郎[1]

先代藩主・一柳末彦の養嗣子となり、文久3年(1863年)6月9日の末彦の隠居により家督を継いだ。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では早くに新政府に帰順して北越戦争に出兵する。明治2年(1869年)の版籍奉還知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で上京する。その後は慶應義塾に入って英学を学んだ。

明治12年(1879年)には東京府区会議長となる。明治17年(1884年)の華族令子爵となり、その後帝国博物館員を務めた。1890年(明治23年)7月10日、貴族院議員に就任し4期ほど務め[2]正三位勲三等に叙せられ、1920年(大正9年)1月17日に辞職した[3]。大正11年(1922年)3月7日、兵庫県明石市大蔵谷本邸にて死去した。享年73。

栄典

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備考

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  • 子供たちには男女ともに高等教育と海外留学を薦め、自由と平等を尊重した人物であったという[5]

系譜

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長男の譲二は分家[6]、二男の恵三は他家に養子に行った[7]。継嗣とされた三男の剛は大正天皇の学友の一人であるが[5]、家督相続前に死去[8]。剛の長男の一柳末幸が家督を継ぎ、子爵となった[1]。四男の喬は夭折[9]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『一柳家史紀要』では3月21日没[1]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i 一柳貞吉 1933, p. 48.
  2. ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』52頁。
  3. ^ 『官報』第2236号、大正9年1月20日。
  4. ^ 『官報』第565号「叙任及辞令」1914年6月19日。
  5. ^ a b “小野藩主一柳末徳の三女と米国人夫の歩みたどる 小野で企画展”. 兵庫おでかけプラス (神戸新聞). (2019年2月17日). https://www.kobe-np.co.jp/news/odekake-plus/news/detail.shtml?news/odekake-plus/news/pickup/201902/12072400 2021年10月11日閲覧。 
  6. ^ 一柳貞吉 1933, pp. 45, 48.
  7. ^ 一柳貞吉 1933, pp. 45–46, 48.
  8. ^ 一柳貞吉 1933, p. 46, 48.
  9. ^ 一柳貞吉 1933, p. 46.

参考文献

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外部リンク

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日本の爵位
先代
叙爵
子爵
小野一柳家初代
1884年 - 1922年
次代
一柳末幸