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九鬼隆備

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
九鬼隆備
九鬼隆備
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 天保5年5月11日1834年6月17日
死没 明治30年(1897年7月13日
官位 従五位上大隅守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家茂慶喜明治天皇
丹波綾部藩
氏族 九鬼氏
父母 九鬼隆都
兄弟 隆備大田原富清隆義一柳末徳
建部秀隆寧隆本庄道美正室、
板倉勝敬正室、石川総邦正室ら
松平光庸中西荘八郎娘
文子、致津公煕室、野崎彦左衛門室、隆治
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九鬼 隆備(くき たかとも)は、江戸時代後期の大名丹波国綾部藩第10代(最後)の藩主。官位従五位上大隅守

経歴

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9代藩主・九鬼隆都の長男として誕生した。

嘉永6年(1853年)12月15日、13代将軍徳川家定に拝謁する。文久元年(1861年)6月10日、父隆都の隠居により、家督を相続した。同年12月16日、従五位下・大隅守に叙任する。文久3年(1863年)3月30日、幕府から京都の警備を命じられる。元治元年(1864年)2月、京都警備のために上洛し、3月、孝明天皇に拝謁する。同年5月5日、従五位上に昇進する。禁門の変では御所を警備している。同年8月、帰藩する。藩政においては藩校進徳館を篤信館と改名し、その翌年には藩内6箇所に郷学校を設立して庶民教育に尽力した。これは後に、明治政府による近代化教育の先駆けとなった。

慶応3年(1867年)、幕府が大政奉還を行なうと、いち早く新政府側に帰順する。明治2年(1869年)の版籍奉還知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官となる。同年11月20日、隠居し、実弟寧隆に家督を譲った。明治9年(1876年)6月12日、寧隆の死去により家督を再び相続する。明治17年(1884年)7月8日、子爵に叙爵される。明治30年(1897年)7月13日、64歳で死去した。

栄典

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系譜

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脚注

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  1. ^ 『官報』第308号、1884年7月9日。
  2. ^ 九鬼隆治『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
日本の爵位
先代
叙爵
子爵
綾部九鬼家初代
1884年 - 1897年
次代
九鬼隆治
当主
先代
九鬼寧隆
綾部藩九鬼家
1876年 - 1897年
次代
九鬼隆治
先代
九鬼隆都
綾部藩九鬼家
1861年 - 1871年
次代
九鬼寧隆