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松平光庸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平光庸
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 寛政10年6月26日1798年8月8日
死没 明治11年(1878年10月4日
改名 起之進(幼名)→松平光庸→戸田光庸
別名 左京、主馬(通称)、尤香斎(号)
墓所 東京都豊島区駒込染井霊園
官位 従五位下、弾正少弼、丹波
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉家慶
信濃松本藩
氏族 戸田松平家→戸田家
父母 父:松平光行、母:錠姫(松平光悌の娘)
養父:松平光年
伊保子久世広誉の娘)
小笠原長国光則内藤政恒戸田光芬(四男)、戸田光遠野々山義比(六男)、康載(板倉勝観)、貞(安藤直裕正室)、孝(島津忠寛継室のち九鬼隆備正室)
養子:光領
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松平 光庸(まつだいら みつつね)は、信濃松本藩の第8代藩主。戸田松平家13代。

生涯

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寛政10年(1798年)、松本藩の第6代藩主・松平光行の三男として生まれる。母・錠姫は光行の正室で、第5代藩主・松平光悌の娘である。文政2年(1819年)7月8日、第7代藩主・松平光年(母方のおじにあたる)の養子となる。同年9月1日、将軍・徳川家斉に拝謁する。文政3年12月16日(1821年)、従五位下・弾正少弼に叙任する。天保8年(1837年)3月30日、光年の死去により家督を相続した。

文化13年(1816年)、産物会所を設置して領内の産業を奨励した。 天保12年(1841年)、藩の財政改革を巡って譜代家臣と新参家臣が対立し、お家騒動(戸田図書事件)が起こる。弘化2年(1845年)10月22日、家督を次男の光則に譲り、隠居して尤香斎と称する。明治5年(1872年)2月5日、東京に移住する。明治11年(1878年)、葛飾郡須崎村の邸宅で死去した。

系譜

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父母

正室

側室

  • 吉野曽興子
  • 浅野氏

子女

養子


脚注

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  1. ^ 松平光悌の長男
  2. ^ 小笠原長和の養子
  3. ^ 内藤政民の養子
  4. ^ 松平康英の養子、生家へ復籍ののち板倉家に入婿(板倉勝観と改名)