松平光庸
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時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
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生誕 | 寛政10年6月26日(1798年8月8日) |
死没 | 明治11年(1878年)10月4日 |
改名 | 起之進(幼名)→松平光庸→戸田光庸 |
別名 | 左京、主馬(通称)、尤香斎(号) |
墓所 | 東京都豊島区駒込の染井霊園 |
官位 | 従五位下、弾正少弼、丹波守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉→家慶 |
藩 | 信濃松本藩主 |
氏族 | 戸田松平家→戸田家 |
父母 |
父:松平光行、母:錠姫(松平光悌の娘) 養父:松平光年 |
妻 | 伊保子(久世広誉の娘) |
子 |
小笠原長国、光則、内藤政恒、戸田光芬(四男)、戸田光遠、野々山義比(六男)、康載(板倉勝観)、貞(安藤直裕正室)、孝(島津忠寛継室のち九鬼隆備正室) 養子:光領 |
松平 光庸(まつだいら みつつね)は、信濃松本藩の第8代藩主。戸田松平家13代。
生涯
[編集]寛政10年(1798年)、松本藩の第6代藩主・松平光行の三男として生まれる。母・錠姫は光行の正室で、第5代藩主・松平光悌の娘である。文政2年(1819年)7月8日、第7代藩主・松平光年(母方のおじにあたる)の養子となる。同年9月1日、将軍・徳川家斉に拝謁する。文政3年12月16日(1821年)、従五位下・弾正少弼に叙任する。天保8年(1837年)3月30日、光年の死去により家督を相続した。
文化13年(1816年)、産物会所を設置して領内の産業を奨励した。 天保12年(1841年)、藩の財政改革を巡って譜代家臣と新参家臣が対立し、お家騒動(戸田図書事件)が起こる。弘化2年(1845年)10月22日、家督を次男の光則に譲り、隠居して尤香斎と称する。明治5年(1872年)2月5日、東京に移住する。明治11年(1878年)、葛飾郡須崎村の邸宅で死去した。
系譜
[編集]父母
正室
- 伊保子 ー 久世広誉の娘
側室
- 吉野曽興子
- 浅野氏
子女
- 小笠原長国[2](長男)
- 松平(戸田)光則(次男)生母は吉野氏(側室)
- 内藤政恒[3](三男)生母は伊保子(正室)
- 戸田光芬(四男)
- 戸田光遠(五男)
- 野々山義比(六男)
- 松平(松井)康載[4](九男)
- 貞 ー 安藤直裕正室
- 孝 ー 島津忠寛継室のち九鬼隆備正室
養子
- 松平光領 ー 松平光年の四男